太田述正コラム#12564(2022.2.10)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その5)>(2022/5/5公開)

「<こうして、>事実上、朝廷が国政の枢要な一部局となり、幕府政治への容喙も公然となった。
そしてそれを背景として、諸般の動きも顕著となる。
その先陣を切ったのが、長州藩と薩摩藩であった。
1861・・・年5月、まず長州藩が、長井雅樂の「航海遠略説」を掲げて朝幕のあいだを周旋し、中央政局の主導を試みた。
ついで翌1862・・・年4月、今度は薩摩藩の島津久光が兵を率いて上洛し、朝幕の中枢人事に介入した。・・・
久光は、・・・真の公武合体<のために、と、>・・・朝廷に対しては九条関白の更迭と近衛忠煕の新関白就任を、幕府に対しては<、その年の1月15日に水戸浪士の襲撃を受け、負傷した(坂下門外の変)、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%AD%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%AD%A3</a> >
老中首座の安藤信正の更迭を要求し<、どちらも実現させ>た。
<<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a> 及び、上掲>

そして5月、久光は勅使大原重徳を擁して江戸にくだり、松平慶永(よしなが)(春嶽)の政事総裁職<(注8)>就任と、一橋慶喜の将軍後見職<(注9)>就任を、幕府と折衝して実現させたのである。

(注8)「幕末、ペリー来航に象徴される対外危機意識を背景に、従来幕政から疎外されてきた朝廷や諸大名層からの政治参加要求が高まった。その中で、御三家や御家門といった徳川宗家に近い高い格式を誇り、対外危機意識をも共有する親藩大名は、従来の譜代大名中心の幕政に風穴を開けるべく期待をかけられる存在であった。
・・・1862年・・・、朝廷は、岩倉具視らの建策に基づき、水戸徳川家出身の一橋慶喜を将軍後見職に、家門の福井藩主松平慶永を大老職に就けるよう幕府に要求する。要求に当たっては、大原重徳を勅使として江戸に派遣し、薩摩藩の島津久光が護衛として同行した。これに対し幕府は、4月25日に慶喜・慶永ら旧一橋派諸侯の赦免を決定し、7月9日に慶永を政事総裁職とした。当初慶永には大老職が打診されたが、慶永がこれに対して、大老は譜代大名がなるものであり、家門筆頭の自分がつくべき職でないと主張したことから、急遽、政事総裁職として新設された経緯がある。
慶永は横井小楠をブレーンとして、慶喜らとともに文久の幕政改革を行ったが、翌・・・1863年・・・、将軍徳川家茂の上洛工作のために滞京中、朝廷の強硬な対外意見と自らの対外意見とのあいだで進退窮まり、3月2日に辞表を提出し、それが受け入れられないまま領国の越前に帰国してしまう。このため、3月25日に逼塞処分とされて総裁職を罷免された。
その後、10月11日になって後任として、家門の武蔵国川越藩主松平直克が任命された。直克は参<預>会議と幕府の意見調整にあたり、参<預>会議の瓦解後は慶喜とともに横浜鎖港政策を推進するが、天狗党の乱への対処をめぐって幕閣と対立し、・・・1864年・・・6月22日に辞職した。
その後に政事総裁職に就任した者はおらず、結果として徳川家門のみが在職した職となったが、松平直克就任以前に加賀藩の前田斉康が幕閣から政事総裁職就任の打診を受けているほか、直克辞職後も、米沢藩の上杉斉憲、仙台藩の伊達慶邦が打診を受けており、東国の外様大名からの選出も模索されていた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BA%8B%E7%B7%8F%E8%A3%81%E8%81%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BA%8B%E7%B7%8F%E8%A3%81%E8%81%B7</a>
(注9)「1858年・・・、年少の徳川家茂が14代将軍に就任したために、同年8月、前将軍・徳川家定の遺命と、同じく年少で将軍に付いた4代将軍・徳川家綱時の保科正之、11代将軍・徳川家斉における松平定信時の先例を名目に御三卿田安家の徳川慶頼が任命された。ただし、実際には大老・井伊直弼が形式的に擁立したもので正式な役職でもなく、実権も有しなかった。
ところが、・・・1862年・・・5月、朝廷内部に幕府内の親井伊派の処分を要求する動きがあり、その対応の一環として「家茂の成人」を理由に井伊に擁立された慶頼が後見職から退いた。続いて朝廷より、御三卿一橋家の徳川慶喜を幕府の正式な役職としての将軍後見職に任じるように勅諚が下された。これを受けて同年7月に慶喜が幕府の正式な役職として新設された将軍後見職に任命された。・・・1864年・・・3月、慶喜が禁裏守衛総督に転じたために廃止された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%BE%8C%E8%A6%8B%E8%81%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%BE%8C%E8%A6%8B%E8%81%B7</a>

勅使を擁した、大名でもない久光の要求によって、幕府の最高人事が決定したことは、朝幕間の力関係を白日のもとにさらすものだった。・・・」(19)

⇒「注8」で引用したウィキペディアの執筆陣は、典拠として奈良勝司(注10)『明治維新をとらえ直す』(有志舎、2018年)だけを挙げているので、「岩倉具視らの建策に基づき」というのは奈良の指摘なのでしょうが、慶喜と春嶽のそれぞれの職への就任要求は、やはり、薩摩藩の大久保等との相談の上で、近衛忠煕が岩倉に献策するよう命じたものである、と、私は思います。(太田)

(注10)ならかつじ。立命館大文(日本私学)卒、同大院博士課程後期課程修了、同大博士(文学)、日本学術振興会特別研究員、立命館大専門研究員、独ルール大客員准教授、韓国漢陽大助教授、立命館大助教、国際日本文化研究センター客員助教授、広島大准教授。
<a href=’https://seeds.office.hiroshima-u.ac.jp/profile/ja.7611067865d8a4bb520e17560c007669.html’>https://seeds.office.hiroshima-u.ac.jp/profile/ja.7611067865d8a4bb520e17560c007669.html</a>

いずれにせよ、幕府の最高人事を「要求」したのはあくまでも孝明天皇であり、朝廷であって、(特段識見を持ち合わせていない)久光ごときは、形式的にも実質的にも、勅使の高級用心棒程度の存在に過ぎなかった、と、私は見ています。(太田)

(続く)