太田述正コラム#12566(2022.2.11)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その6)>(2022.5.6公開)

「朝廷内<は、>・・・かつての静謐さは影を潜め、公家社会は激動の時期を迎えていた。
1858・・・年の政変で政治に目覚めた中・下層の公家たちは、もはや摂関家の支配に甘んじる存在ではなかった。
安政の大獄のあいだこそ一時的に逼塞していたが、雄藩の国政への介入が始まると、一気に政治化が昂進するのである。
その最初の表れが、1862年7月に開始された、「四奸二嬪」<(コラム#12494)>排斥運動と呼ばれる、佐幕派ないしは公武合体派の公家に対する脅迫行為であった。・・・
尊攘派は、薩摩藩と対抗するため、藩論を「破約攘夷」に切り換えた長州藩と提携し、条約即時廃棄や攘夷親征など過激な攘夷論を掲げ、1863・・・年の前半には佐幕派に対して天誅というテロを横行させた。
孝明天皇をはじめとする朝廷首脳部は、これに為す術を知らず、三条実美や姉小路公知ら尊攘派の公家たちが朝廷政治を牛耳るのを傍観するほかなかった。・・・
情勢の暗転を察知した岩倉は、自発的に近習<(注11)>を辞職したが、それだけではおさまらず、・・・1862年10月から1867・・・年11月まで、洛中帰住が許されるまでの、5年間の岩倉の地下生活<(注12)>が始まった。・・・

(注11)きんじゅう。「公家,武家を通じて主君の側近にあって奉仕する役。〈きんじゅ〉と読むことが多い。平安時代の朝廷にもこの称呼はみられるが,職制として成立するのは,鎌倉幕府以降の武家においてである。鎌倉幕府では1203年・・・将軍源実朝の元服のときに陪膳役等を務める近習の称がみえ,23年・・・には六番各3人,37年・・・には三番各6人の近習番が定められている。その後50年・・・には六番編成で各番16人の定員へと,組織の整備・拡大がなされた。」
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(注12)「岩倉具視<は、>・・・知行地(領主として支配する土地)だった洛北の岩倉村で隠棲を余儀なくされていました。・・・
岩倉村には、非蔵人の松尾相永のもとに集う「柳の図子党」と呼ばれた志士たちが出入りして、具視に世情を伝えました。」
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「松尾相永<(すけなが。1828~1877年)は、>・・・幕末の非蔵人。公家と地下官人の間にあり,御所内の雑務担当を職務とする身分の出身。通称但馬。・・・1858・・・年3月,同志の非蔵人50名余と条約調印反対を建議。のち尊攘運動に接近し,・・・1863・・・年の8月18日の政変で参朝停止の処分を受ける。・・・1867・・・年1月処分解除,同年12月,王政復古の前日には岩倉邸にあり,鴨脚光長,松尾相保,中川元績,吉田良栄ら非蔵人と共に政変の準備に当たる。・・・
<1868>年嘉彰(よしあき)親王(小松宮彰仁(あきひと)親王)にしたがい越後口に出陣した。」
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非蔵人(ひくろうど)は、「平安以来蔵人所の職員。良家の子で六位になっている者からえらばれ、昇殿を許されて蔵人の下で宮中の雑用を務めるもの。四人ないし五・六人が補任された。院庁、東宮にも置かれた。」
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「幕末、京都で尊王攘夷運動が盛んになると、非蔵人の松尾相永と処士の藤井九成は志士達の活動に理解を示し、これに協力した。松尾は御所近くの「今出川室町上ルの柳の図子」に住み、藤井はその隣に住んでいた。ここを密会所として梅田雲浜、久坂玄瑞、武市半平太などに利用させていた事からこれら出入した人々を称して「柳の図子党」と呼んだ。(出入した全員が一党を組んだという意味ではない)
・・・1865年・・・に松尾と藤井が岩倉具視の元を訪れて協力するようになってからは岩倉の手足として諜報活動や薩摩藩とのやり取りを担う集団になった。松尾、藤井の他に、城多董、香川敬三、藤井良節・井上石見兄弟などがこれに加わった。」
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「藤井九成<(きゅうせい。1837~1910年)>・・・は尊王運動弾圧事件として知られる明和事件に連座して斬罪となった藤井右門の曾孫である。
少年期に三条実<萬>に仕えていたが、後に処士(在野の士)として尊王攘夷運動に関わった。
藤井は「柳の図子党」と呼ばれた志士の1人で、岩倉具視の失脚後、同志の松尾相永と共に・・・1865年・・・春頃に岩倉の元を訪れ、以降岩倉の政治活動を補佐した。岩倉を公武合体派の姦物と見ていた人々も藤井、松尾の説得で岩倉と面会し、傑物であることを知って協力するようになっていった。
・・・1868年・・・、軍監、大監察兼金穀方として戊辰戦争に従軍。その後は岩倉家の家令や宮内省陵墓守長を務めた。」
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⇒岩倉具視は、「1854<年>に孝明天皇の侍従となり、ついで近習となっ<た>」
<a href=’https://intojapanwaraku.com/culture/166850/’>https://intojapanwaraku.com/culture/166850/</a>
とされていますが、「注11」からは、天皇の近習とはいかなるもので、侍従とはどう違うのか、よく分かりません。
とまれ、「注12」に登場する柳の図子党関係者の多くは、攘夷派から開国派に「転向」しているわけですが、彼らの活動資金の提供も、また、「転向」も、近衛/薩摩藩、が黒幕であったであろうことは、「注12」中に薩摩藩が登場することからも、察しがつく、というものです。(太田)

ついに孝明天皇も主導権の奪回を決意する。
天皇を支える中川宮および薩摩藩・会津藩の両藩を中心として、8月18日、武力をもって京都から長州藩と尊攘派を追放(七卿落ち)するクーデターを決行したのである。
・・・政局の主導権は公武合体派へと移った。
1864・・・年1月には、公武合体派の島津久光ら雄藩諸侯が、朝廷からあらたに設置された参預職に任命され、参預会議が発足した。・・・
しかし、この参預会議は、薩摩の野心を疑う一橋慶喜と、そうした慶喜に反発する島津久光との、横浜鎖港をめぐる確執から、幕府と薩摩藩との間に不快相互不信を残したまま、まもなく崩壊した。」(20~21、23~2)

⇒慶喜が参預会議をつぶしたのは、幕府延命に繋がるような機構を潰すことで、幕府の自壊を確実なものにし、早めるのが狙いであった的なことを既に申し上げたことがあります(コラム#省略)。
なお、本筋とは関係ありませんが、私は、慶喜は、島津久光の無定見さを軽蔑していて、実際嫌いであった、と想像しています。(太田)

(続く)