太田述正コラム#12568(2022.2.12)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その7)>(2022.5.7公開)

「参預会議を解体に追い込んだ慶喜は、かわりに<1864年>三月禁裏御守衛総督に就任し、すでに京都守護職に就いていた会津藩主松平容保(かたもり)と容保の実弟で京都所司代に任命される桑名藩主松平定敬(さだあき)の三者からなる、幕府主導の京都支配体制を構築した。
そしてこのいわゆる「一会桑(いっかいそう)」と呼ばれる政治システムの成立を背景に、4月条件付きながら、将軍家茂に改めて大政を委任する勅書が朝廷からあたえられた。
慶喜は、雄藩の進出をひとまず阻止し、大政再委任<(注13)>という形で幕府の主導権を奪回することに成功したのである。・・・」(25)

(注13)「<1863>年3月4日、将軍家茂が入京した<が、>将軍に先立って上京していた後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽は、尊攘急進派の勢力を覆すことができず、それどころか実行不可能な攘夷の期限を4月中旬と約束していた。
春嶽は、・・・<こちらを自分は推すが、>「幕府より断然大権を朝廷へ返上」するか、<さもなくば>「朝廷より更に大権を幕府に委任」のどちらかに定めるべきだと考えた。・・・
後見職一橋慶喜は天皇から大政委任の再確認を得る<べきだ>と考えた。将軍上洛の翌3月5日、将軍名代として参内し、天皇に謁見して大政委任の沙汰を要請した。天皇は「庶政は従来どおり関東へ委任する存慮なり。攘夷の挙はなお出精すべし」と答えた。・・・
3月7日、将軍家茂は慶喜らを伴って参内・謁見し、庶政委任の請書を提出した。ところが、これに対し、関白から出た沙汰書は、すべてを幕府に委任するという内容ではなく、征夷将軍については委任するが、国事については諸藩に直接沙汰をすることもあるとなっていた(「征夷将軍の儀、これまで通り御委任遊ばされし上は叡慮を遵奉し、君臣の名分を正し、皇国一致して攘夷の功を奏し、人心帰服の処置あるべし、国事については事柄によりて直に諸藩へ御沙汰を下すことあるべければ、予め示し置く」)。・・・
政事総裁職の松平春嶽は・・・自分の意見が容れられないのをみて、3月27日、ついに総裁職の辞表を提出し・・・21日、ついに許可のないまま京都を出立し、国許に帰った。幕府は総裁職を罷免し、春嶽に逼塞処分を課した。
春嶽が辞表を提出してまもなくの3月14日、薩摩藩国父島津久光が入京した。久光は近衛前関白(薩摩藩と姻戚で公武合体派)邸を訪ね、14条の建白書(攘夷の決議を簡単にしないこと、幕府へ大政委任することなど)を提出し、さらに外国拒絶をしないこと、尊攘派公卿に牛耳られた国事御用掛を廃止することなどを建議した。しかし、朝幕の反応が思わしくないことから見切りをつけ、朝廷・幕府に上書を出すと滞京5日にして18日に退京して大坂に下り、20日に大阪港を出て鹿児島に向かった。
久光・春嶽に続いて、26日には前土佐藩主山内容堂、27日には前宇和島藩主伊達宗城が退京し、3月末までに公武合体派大名は京都からいなくなった。
さらに、朝廷でも公武合体派の近衛前関白が内覧を辞し、朝政から去った。(中川宮も国事扶助辞職を願いでたが、こちらは勅許が降りなかった)。
将軍上洛に際して、幕府は、総裁職春嶽の主唱により、公武合体派公卿と薩摩藩国父島津久光ら公武合体派大名と連携して勢力挽回を図ろうとしていた。しかし、朝廷における尊攘急進派の勢力拡大とともに公武合体派の権力は急速に落ち、いままた、総裁職春嶽が政局から去り、公武合体派の大名もすべて退京し、春嶽の公武合体派連合計画は完全に挫折した・・・。」(著者不詳)
<a href=’http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/bakumatu/tuushi-b3-taiseiinin.htm’>http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/bakumatu/tuushi-b3-taiseiinin.htm</a>
「<1863年>4月20日、家茂は攘夷の実行を5月10日と決する。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%98%E5%A4%B7%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%8B%85%E5%91%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%98%E5%A4%B7%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%8B%85%E5%91%BD</a>
「「大政委任」の考えは定信のような要人や学者の間で唱えられることはあっても、江戸幕府として正式に認めたものではなかった。公式の朝幕関係の場でこの大政委任論が確認されたのは、・・・1863年・・・3月7日に京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。ただし、孝明天皇は家茂の義兄で、かつ江戸幕府との関係を重視する立場(佐幕主義)であったため、この時点では直ちに影響を与えるものは無かった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96#:~:text=%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96%EF%BC%88%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%9B,%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96#:~:text=%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96%EF%BC%88%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%9B,%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82</a>

⇒慶喜による幕府への大政再委任なるものについて、ネット上で手がかりを得ることはできませんでしたが、慶喜が、幕府が日本の政治の全責任を負う体制の再確認を本当に追求したとして、彼が、(自分が設定したと言ってもよいところの)攘夷の期限直後に長州藩と薩摩藩が、それぞれ実際に攘夷を決行し、1864年になっても長州藩に至ってはその継続中であったという状況下で、そんなものを追求して得ることが何をもたらすかを予期できなかったはずがありません。
何度も申し上げて恐縮ながら、私は、慶喜は、一貫して、幕府を、その内部から可及的速やかに瓦解(implode)させようとしていた、と、見ているのです。
「注13」に出て来る春嶽の公武合体(大政奉還・開国)論に乗ると幕府改め日本最大の藩が日本の政治を主導する体制が続きかねないのでこれを退けるとともに、島津久光の公武合体(大政(再)委任・開国)論に乗ると今まで通りの幕府が続きかねないのでこれももちろん退けた、のでしょう。
ミソは、慶喜が、孝明天皇の攘夷論へのナンセンスな固執に藉口しつつそうしたことです。
これは、私見では、近衛忠煕(と島津斉彬)の目論見と一致したものであったはずです。
これを、忠煕と慶喜が密かに通じ合っていたと見るか、両者がたまたま同じ目論見を抱くに至っていたと見るか、は、近衛家と水戸徳川家との江戸時代初期からの密接な関係(コラム#省略)を思い起こせば、どうでもいいことでしょう。(太田)

(続く)