太田述正コラム#12578(2022.2.17)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その12)>(2022.5.12公開)

「逆境のなかで、岩倉と薩摩藩との提携が本格化する。
大久保は、朝廷政治における劣勢の挽回を期して公家の岩倉らに接近する。
岩倉も、事態の打開を求めて薩摩藩の援助を求めた。
こうして十月初旬、岩倉と大久保は、中御門を介して改めて同盟の誓約を交わしたのである。・・・

⇒「1866年・・・6月7日からはじまった第二次長州征伐は長州軍の決死の反攻で幕府軍の苦戦が続く中、7月18日には広島藩主・浅野長訓、岡山藩主・池田茂政、徳島藩主・蜂須賀斉裕ら外様雄藩が孝明天皇に征長軍解体の建白書を提出。20日には薩摩藩からも解兵の建白書が出された。岩倉も薩摩藩と同様、解兵および長州藩との和解に賛成し、かつての勤王の功績を重んじて禁門の変は寛大な処置で許すべきと主張した。そして朝廷首脳部、特に中川宮を徳川慶喜と松平容保の報告を鵜呑みにして天下の大勢を見ない人物と評して激しく批判した。岩倉は朝廷の悪執政を正すため再び列参を画策。この意見に中御門経之が賛同し、薩摩藩の井上石見と藤井良節らが工作に当たった。・・・ただし協力していた藩士が少なからずいたというだけで、薩摩藩そのものが協力していたかどうかは不明。・・・8月30日、朝廷改革(中川宮・二条斉敬らの追放、近衛忠煕の関白再任、幽閉状態の公卿たちの赦免など)を掲げて中御門経之はじめ二十二卿が連なって参内した(岩倉は参内禁止中)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96</a>
という具合に、岩倉具視のウィキペディアの執筆陣は、22人公家集団参内、と、岩倉と「薩摩藩」との協力開始、との順序を坂本とは逆にしていますが、私に言わせれば、岩倉は、最初から、近衛忠煕/薩摩藩、のエージェントなのですから、どちらも間違っています。
なお、ここに出てこない、土佐と越前と尾張、を加えた、薩摩・長州・土佐・越前・尾張・芸州・備前・阿波、「同盟」がこの時点までに成立していたことが見て取れますね。(太田)

<そんなところへ、>孝明天皇が、突然死去した・・・。・・・
現在の学界では病死説が定説であるが、毒殺説の可能性を留保する人も少なくない。<(注21)>

(注21)「最近、医学者の橋本博雄氏は「孝明天皇と痘瘡」なる論文で、天皇が通常型痘瘡の症状を示しており、・・・・天皇を治療した15人の典医でもない人物<達の言うように、>・・・悪質な紫斑性痘瘡ないし出血性膿疱(のうほう)性痘瘡・・・によって死亡した<、すなわち、痘瘡によって死亡した、>とは考えにくいという見解を示した(日本医史学会関西支部『医譚』通巻129号、<2020>年12月)。」
<a href=’https://www.sankei.com/article/20211024-PHY3LRE2IJLTVKIZ2T72S35L64/’>https://www.sankei.com/article/20211024-PHY3LRE2IJLTVKIZ2T72S35L64/</a>
孝明天皇のウィキペディア執筆陣が、この最新説に全く触れていない
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>
のは怠慢のそしりを免れない。

ただ、たとえ毒殺説が歴史の闇に埋もれた真実だったとしても、当時の状況に鑑みれば、岩倉が毒殺を企図した可能性はきわめて低く、首謀者は他者に求めるべきであろう。・・・

⇒タイミングが良過ぎる孝明天皇の死去であり、しかも、最新の医学的所見に基づくと、従来から言われてきた痘瘡が死因ではありえないとされる以上、この死去は病死を偽装した他殺死であり、その場合、「無難な」毒殺であった可能性が高く、かつまた、その首謀者を一人に絞れと言われたら、孝明天皇の死によって最も裨益するところの、近衛忠煕/薩摩藩、の筆頭格にして、天皇の身辺にあらゆるつてを持つ、廷臣筆頭格の近衛忠煕、で決まりでしょうね。(太田)

新年<(1867年)>になると新帝の体制づくりという名目のもとにさまざまな朝廷工作が活発化した。
1月15日の朝議でまず九条尚忠(ひさただ)ら13人の赦免が決まった。
続いて1月25日、岩倉らの同志で、新帝の外祖父でもある中山忠能(ただやす)ら9人が追加で赦免された。
そして、3月29日、列参関係者の正親町三条実愛・中御門経之・大原重徳ら24人の幽閉が解かれ、岩倉に対しても追放解除が出た。
もっとも、岩倉の場合は、なお朝廷内に異論があり、全面的な赦免ではなく、住居は依然として洛外とされ、月に一度は帰宅できるが一泊のみという条件がついていた。
ちなみに、岩倉が完全に赦されて晴れて自由の身になるのは、王政復古当日の12月9日である。・・・」(34~36)

⇒近衛忠煕/薩摩藩が、岩倉が貴重なエージェントであったことから、その安全の確保・・暗殺の危険だけではなく、拉致されて情報を吐かされる危険もあった・・の目的で、事実上、私宅に帰らさない措置、恐らくは薩摩藩が完全に保護できる場所で岩倉を生活させる措置、を暫時とることにしたのではないでしょうか。(太田)

(続く)