太田述正コラム#12580(2022.2.18)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その13)>(2022.5.13公開)

 「慶喜は、・・・1867・・・年・・・2月19日、島津久光や山内容堂らに対して・・・兵庫開港<(注22)>について所見を求めた。

 (注22)「「兵庫港」は、古くは「大輪田泊」または「務古の水門」と呼ばれ、貿易港として栄えた。平清盛は、大々的に港を整備し、人工島である「兵庫島(経が島)」を築き、宋との貿易の拠点とした。・・・福原という場所は、前期の「大輪田泊」の港を見下ろすことのできる山麓にある(現・兵庫区)。清盛の時代<の1180年>、この福原にわずか半年間だが、都「福原京」が置かれた。」
https://smtrc.jp/town-archives/city/kobe/p07.html

 ところが慶喜は、欧米諸国の圧力もあって、返答期限である3月20日を待たず、3月5日、幕府の独断で兵庫開港の勅許を朝廷に奏請した。
 さらに3月下旬から4月にかけて、各国公使を大坂に招いて会見し、兵庫開港を条約の予定どおりに実施することを明言したのである。・・・
 薩摩藩の反幕府派の・・・大久保らは、・・・近衛忠煕や島津久光にも意見書を提出し、兵庫開港は諸侯の衆議をもって決定すべき問題なのに、慶喜がそうした手続きを無視して独断専行したことを強く非難し、征夷大将軍職の剥奪にまで言及した。
 さらに、兵庫開港の勅許を阻止する調停工作にも乗りだし、その結果、有力諸侯の上洛をうながすとともに、3月19日朝廷から兵庫開港を不可とする御沙汰書を慶喜にくだすことに成功したのである。」(36~37)
 
⇒自分達も開港拒否ないし開港延期なんて不可だと思っているというのに、明確な意見を言わず、或いは、意見を出し渋り、仕方なく幕府が「独断」で開港しようとすると、独断だ、勅許を得ていない、とイチャモンをつける、その上、念には念を入れて、朝廷から拒否通達も出させる、って相当あくどい、と思わないですか?
 かつては攘夷について同じことを、オカシかった孝明天皇を泳がしつつ、彼らはやってきたのですが、孝明天皇が明治天皇に代わってからも、同じことをやらかしたわけであるところ、そんなことができたのも、明治天皇の最初の摂政が、孝明天皇にとっての最後の関白であった二条斉敬だったから、というか、斉敬が、当時、朝廷における全権を行使できたからです。
 その二条斉敬(なりゆき。1816~1878年)は、「二条斉信と徳川従子(水戸藩7代藩主・徳川治紀の娘で斉昭の姉)の次男として誕生<した人物で、>徳川慶喜の従兄弟でもある<ところ、彼が関白になった経緯が、>・・・1862年・・・には<内大臣から>右大臣に進<み、>・・・青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)などと共に公武合体(親幕)派と目され<、1862>年12月に国事御用掛に任ぜられ、三条実美や姉小路公知ら攘夷派の過激公卿、およびそれを支援する長州藩と対立<し、>・・・1863年・・・、前関白の近衛忠煕や朝彦親王と共に薩摩藩および京都守護職の会津藩主松平容保を引き入れ、八月十八日の政変を決行し、長州藩や過激派公卿の追放(七卿落ち)に成功した<ところ、>もとより公武合体を強く欲していた孝明天皇の信頼はますます篤く、同年9月には内覧を命じられ、12月には従一位・左大臣に昇進。あわせて関白となるよう詔勅が下され、拝受した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%89%E6%95%AC
という経緯であったことからも分かるように、二条斉敬もまた、近衛忠煕/薩摩藩(の島津斉彬コンセンサス信奉者達)、の、影武者的存在であった点で、鷹司輔煕と同じ、と見てよいのですから、そんな斉敬をこのクリティカルな時期に関白、そして摂政、に就けたのは近衛忠煕だった、とも見てよいでしょう。
 忠煕が、この時期を担わせるのに、鷹司輔煕ではなく二条斉敬に白羽の矢を立てたのは、斉敬が慶喜とツーカーの関係だったからであり、斉敬が右大臣(更には国事御用掛)になった時期が(その実母の影響でアイデンティティーが半分天皇家であったところの)慶喜が将軍後見職になった時期(1862年7月6日)とほぼ同じであったこと、と、斉敬が内覧(更には関白)へと「出世」した時期が慶喜が同じく「出世」して参預会議参預(更には禁裏御守衛総督)になった時期(1863年12月晦日、1864年3月25日)とほぼ同じであったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C ←慶喜に係る期日
とは偶然ではなく、近衛忠煕がそう取り計らったのでしょう。
 当然、家茂の死去を受けて1866年12月5日に慶喜を将軍に就けた(上掲)のも、同じく、演出を企画する忠煕、その演出を表明する斉敬、というコンビだったはずだ、ということになります。
 そして、私は、慶喜は、一貫して、忠煕/斉敬のこの演出に基づき、韜晦を含む迫真の演技でもって、幕府の自壊(implosion)を目指す言動を演じ続けた俳優であった、と、見ているのです。(太田)

(続く)