太田述正コラム#12582(2022.2.19)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その14)>(2022.5.14公開)

 「1867・・・年4月中旬から5月始めにかけて、薩摩藩反幕府派の主導のもと、島津久光・伊達宗城(むねなり)・松平春嶽・山内容堂の四侯が上洛してくる。<(注23)>

 (注23)「四侯会議・・・は,島津久光・松平慶永・山内豊信・伊達宗城が,兵庫開港の勅許および長州処分の問題について朝廷から諮問をうけるため京都に会同したもので,そのことにより将軍に代わって雄藩諸侯に政権を委任させようとする薩摩藩指導部の考え方もあった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E4%BE%AF%E4%BC%9A%E8%AD%B0-1329822
 「5月初旬から中旬にわたり、8回にわたって京都で開催された。」
https://373news.com/_kikaku/meijiishin150/bakumatsu_shimbun.php?storyid=8896

 そして5月14日、二条城で慶喜と四侯のみの会談が開かれた。<(注24)>・・・

 (注24)「<当>日には慶喜たっての要請で、久光や容堂ら4人は二条城で記念写真を撮影した。写真が趣味の慶喜が自ら撮ったという。」(上掲)

 対立は二つあった。
 第一は兵庫開港と長州処分のどちらを優先して処理するかという問題、第二は兵庫開港の承認に際して勅許方式と勅命降下方式のどちらを採用するかという問題であった。
 慶喜は、第一の問題は外政を重視する観点から兵庫開港を優先することを、第二の問題は幕府主導の観点から勅許方式の採用を主張し、幕府主導を牽制したい四侯側と対立したのである。
 結局、5月23日の夜から翌日にかけての長時間の朝議において、兵庫開港の勅許が承認され、同時に長州処分は寛大な処置とすることが決まった。
 妥協の末に、二件同時の勅許となったのである。
 しかし薩摩藩反幕府派が強く望んだ、天皇が条約を結びなおすという方式ではなく、横浜に続き、兵庫も幕府主導の勅許方式で開港と決まったことは、慶喜の勝利といいうるものであった。<(注25)>・・・

 (注25)「23日夜分に始まった朝議は、慶喜と松平春嶽が出席した。先決事項を明言せずに両問題を提案した慶喜は、具体的な処分案に触れず長州を寛大に処置し、兵庫も開港するよう公家らに判断を仰いだ。結論が出ないまま膠着(こうちゃく)し、日付が変わるころに、慶喜が「降命あるまでは退出しない」と断言。公家らは強硬姿勢に圧倒され、“強情公”の異名を持つ慶喜に追従する形で両問題に「勅許」が下った。・・・
 <四侯>会議の事前に、西郷隆盛と会談した英外交官アーネスト・サトウは「革命の機会について話をしていた」と明かし、薩摩藩の“決断”が近いことを示唆した。四侯会議の挫折で、一気に武力対決(討幕)という選択肢が現実味を帯びてき<た>。」(上掲)

 こうした緊迫した情勢のなかで、土佐藩の後藤象二郎は戦乱を危惧して、その後朝廷が中心となって公議機関(二院制議会)を設立し、強力な中央集権国家を樹立するという構想であった。
 薩摩側は、慶喜が政権を返上するとは思わなかったが、それでも幕府が拒否すれば武力倒幕の大義名分として利用できると考え、土佐藩とのあいだに薩土同盟<(注26)>を結んだ。

 (注26)<1867年>、薩摩藩と土佐藩との間に結ばれた、大政奉還のための盟約。・・・四侯会議解体後の政局のなかで,・・・両藩はそれぞれ大政奉還、武力倒幕を主張して対立していたが、・・・1867年・・・6月22日・・・鹿児島藩(薩摩藩)の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らと,高知藩(土佐藩)の後藤象二郎・福岡孝弟・坂本竜馬・中岡慎太郎らは京都で会合,倒幕挙兵に替わり,大政奉還<を実現し、その上で、>・・・朝廷のもとに諸侯会議を基軸として政治を運営する<こと、すなわち>・・・公議政体論・・・を骨子とする政治同盟を結んだ。この薩土盟約は1867年・・・10月13日・・・岩倉具視が大久保利通に鹿児島藩主島津忠義父子に宛てた倒幕の密勅を渡し,鹿児島藩が倒幕運動の名分を得たことで破棄される。・・・
 <ちなみに、>公議政体論は,肥後藩士横井小楠,薩摩藩士五代友厚や幕臣大久保忠寛(一翁)<(コラム#12534)>らにもみられ,坂本竜馬はこの大久保の影響をうけたといわれている。」
https://kotobank.jp/word/%E8%96%A9%E5%9C%9F%E7%9B%9F%E7%B4%84-69223

 他方、情報収集につとめていた慶喜側も、8月下旬になると事態の深刻さを認識し、9月21日、薩摩藩の挙兵に備えて住居を二条城に移転した。」(37~39)

⇒西郷が1867年4月上旬の時点で外国の外交官にまで倒幕の決意を述べていたのですから、それはもちろん慶喜の耳にも入っていたはずであり、にもかかわらず、慶喜が、大政奉還を直ちに行おうとしないどころか、元々は同志のはずの松平春嶽が入っている四侯の案に抵抗を続けた挙句、四侯の案を水で薄めた案を朝議で強引に成立させたのは、そうしなければ朝議が通らないと思ったからではなく、薩摩藩を中心とする勢力に倒幕の口実を与え、倒幕を実行させ、徳川本家を潰すためだった、と、私は見ているわけです。(太田)

(続く)