太田述正コラム#12590(2022.2.23)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その18)>(2022.5.18公開)

 12月25日未明、これらの藩は薩摩藩邸を包囲・・・薩摩藩邸に討ち入りを開始した。・・・
 戦闘開始から3時間後、旧幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで延焼し、もはや踏みとどまれる状況ではなかった。当初より脱出を指示されていた浪士達は、火災に紛れて藩邸を飛び出し、二十数名が一組となって逃走を開始。相楽総三、伊牟田尚平らを始めとする数組が幕府方の包囲網を抜き、浜川鮫州へと向けて走り続け、道筋の民家に放火するなど追跡を錯乱しつつ品川へ。目指すは品川に停泊する薩摩藩の運搬船翔凰丸であったが、焼き討ちと同時に翔凰丸は旧幕府の軍艦回天丸の接近を受け、沖合いへと逃げ出した後であった。浪士たちは漁師らから小船を奪うと、沖合いへと船を出し、何とか翔凰丸に乗り込もうとした。この時、150余名の浪士らが沖合いを目指していたが、翔凰丸は再びの回天接近により錨を揚げて江戸からの撤退を決断。かろうじて先に乗り込んだ相楽ら28名を収容し、残りは置き去りにして紀州へと向け出航した。残された者は羽田方面へと船を向け、上陸後、解散することになった。一部はその後相楽たちの赤報隊に加わることができたが、多くは捕縛された。益満休之助も捕らえられた。翔凰丸はかなりの難航の末西宮にたどり着き、乗っていた相楽たちはそこから上陸、戊辰戦争へ参戦することになる。
 この焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人であった。また、捕縛された浪士たちは112人におよんだと記録されている。
 事件の詳細が大坂城の徳川家の幹部の元へ伝わったのは12月28日・・・で、・・・<松平定信の孫である>老中板倉勝静と前将軍徳川慶喜は沸きあがる「薩摩討つべし」の声を抑えることができず、薩摩藩の目論見通り旧幕府は討薩への意志を固める。・・・

⇒この「江戸薩摩藩邸の焼討事件」のウィキペディアの引用部分全体を読んでもらえば分かるように、放火、掠奪、暴行などを繰り返したのは、(水戸浪士達もからんだ)薩摩藩と土佐藩の共同挑発行為であったのに、敵を薩摩藩だけに絞ったのはおかしい上、江戸の旧幕当局が行った薩摩藩邸の焼討に憤激したというのだから、ヒステリーのような話だ。
 恐らくは、在大坂旧幕府当局と在江戸旧幕府当局との間の連絡に齟齬があったことに加え、どちらの当局についても、諜報能力が不十分で、的確な情勢判断ができなかったのだろうが、もはや、旧幕府は烏合の衆化していた感が否めない。
 もとより、これは、慶喜にとって、旧幕府を潰す絶好の機会が訪れたことを意味するのであって、恐らくは、慶喜自身は、朝廷内からも情報が得られていた可能性もあり、概ね的確な情勢判断ができていたと想像され、「喜んで」このヒステリーもどきの状態の旧幕臣達に開戦させたのだろう。(太田)

 当事者である新徴組はそこまで大事とは考えていなかった<。>・・・

⇒江戸薩摩藩邸の焼討を行った者達は、放火、掠奪、暴行などの実行部隊とその出撃拠点を完全に潰すことができて達成感に浸っていたはずであるところ、そのことが大事になったことを知ってキツネにつままれたような思いだったのではなかろうか。(太田)

 旧幕府は朝廷へと討薩を上表し、<1868>年1月・・・、軍を編成して京都に向けて進軍を開始した。この京都の薩摩兵への攻撃は、その後、戊辰戦争へと繋がっていく。
 <すなわち、>12月28日・・・、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩摩・長州・安芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。・・・
 谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。<1868>年1月1日・・・、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、1月3日・・・、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日・・・、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。その後、錦の御旗が翻る。1月6日・・・、谷が土佐に到着。1月9日・・・、乾退助の失脚が解かれ、1月13日・・・、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E9%82%B8%E3%81%AE%E7%84%BC%E8%A8%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 この事件が12月晦日大坂に伝えられると、扇動もあって、幕府陣営は一気に薩摩征討へと燃え上がった。
 慶喜も、あえてこれをとめなかった。・・・
 薩摩側は、・・・鳥羽伏見で旧幕府軍を迎えると、・・・戦闘が始まる。
 兵力の上では劣勢(約5000人)でも、従前な準備をした薩摩・長州川に対して、兵の数では上回る(約1万5000人)も、戦争に対する装備も意思統一も不十分な旧幕府側は緒戦で敗北し、続いて淀藩<(注36)>の裏切り<(前出)>にあい、旧幕府側はあっという間に敗勢に追い込まれた。」(46~47)

 (注36)「稲葉家は10万2000石という大領ではあったが、その所領は山城のほかに摂津・河内・近江・下総・越後などに分散しているという不安定さで、山城にあった所領は2万石にも満たなかったと言われている。このため、藩政においても財政基盤の脆弱さから人夫の徴発さえままならず、財政は苦しかった。第7代藩主稲葉正諶は、・・・1784年・・・に越後の所領を和泉や近江に移したが、これにより所領10万2000石は7カ国に分散することとなり、全くの逆効果を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E8%97%A9

⇒装備を整えていなかったのも、意思統一どころか司令官すらいない状態で開戦せざるをえなかったのも、どちらも慶喜の責任であり、もちろん、こういう事態になった時に旧幕府側を確実に敗北させようと慶喜は以前から考えており、彼の望んだ通りの結果になった、ということでしょう。(太田)

(続く)