太田述正コラム#12594(2022.2.25)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その20)>(2022.5.20公開)


[岩倉具視と秀吉流日蓮主義]

 岩倉具視自身、「1858年・・・の安政の大獄の廷臣八十八卿列参事件で<彼の>養<親>の具慶や<養子>の具綱と共に連座した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E6%85%B6
ところ、具視の実父の堀河康親(1797~1859年)もまた、「八十八卿として子の親賀、康隆(親賀の養子)と共に連座した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%BA%B7%E8%A6%AA
人物であり、具視もその実父も、志を同じくしていたと思われるわけだが、読者が教えてくれた話(コラム#12426)に触れるのを忘れるところだったので、ここで触れておこう。
 この実父の堀河康親は、「刑部卿・萩原員幹の子<で>参議・堀河親実の養子<になった>」(上掲)人物だが、萩原家は、「卜部朝臣を本姓とする堂上家。江戸時代前期の吉田兼治の長男で、祖父兼見の養子となった萩原兼従を祖とする。家格は半家。正二位非参議を極位極官とする。家職は神道。江戸時代の家禄は1000石。半家でありながら家禄が摂家並なのは、萩原家がそもそも豊国神社の社務を世襲する社家として豊臣秀吉の推挙により創設された家で、社家としての役料が大坂の陣後に豊国神社が破却された後も家領としてそのまま徳川家康(江戸幕府)にも認められたためである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%AE%B6
という家で、この租の萩原兼従は、「母は細川藤孝(細川幽斎)の娘<で、>室は高台院の姪<であり、>・・・1615年(元和元年)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦された。その後本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%85%BC%E5%BE%93
という人物だが、豊臣秀吉と縁が深い有力外様大名である細川氏、及び、秀吉の正室である高台院、と縁戚関係があり、だからこそ、豊国神社の社家になったわけであり、当然のことながら、堀河家は秀吉流日蓮主義信奉家になって、堀河康親、そして、岩倉具視、へと、秀吉流日蓮主義を継承させたはずだ。
 そんな岩倉具視が、近衛忠煕/薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達、によって、朝廷内の便利屋として重用されたのは自然の成り行きだったことだろう。 
 「1868年・・・閏4月、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下され<、>同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられ<、>1873年(明治6年)8月14日、別格官幣社に列格し<、>1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され、萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命され<、>1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われ<、>旧福岡藩主の黒田長成侯爵・蜂須賀茂韶侯爵ら<・・細川家はどうした?(太田)・・>が中心となり境内の整備が行われ・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

のは、全て岩倉具視(~1883年)主導によるものだろうが、それは、近衛家/薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達を中心とする多数の秀吉流日蓮主義信奉者達の総意に基づくものでもあったはずだ。

「1869(明治2)年1月25日、岩倉は、国家構想についての意見書を提出した。・・・
 岩倉は公家の出身ではあるが、むしろ天皇に依存しない政治制度を創設することこそが肝要だと考慮していた。
 「臣子の分として之を言うに憚ると雖も、明天子賢宰相の出づるを待たずとも、自ら国家を保持するに足るの制度を確立するに非らざれば不可なり」。・・・

⇒これは、利用し甲斐はあったけれど、識見のなさに手を焼いたところの、孝明天皇のことが念頭にあるくだりだと思われます。
 「宰相」への言及は、天皇だけに言及するわけにいかないことからのイチジクの葉ということでしょう。
 (天皇は、本人が辞めると言わない限り終身制であったけれど、宰相つまりは摂関は、5摂家の持ち回りで、終身制ではありませんでしたしね。)(太田)

 それゆえ岩倉は、政治制度は、「古の良法美制と雖、今日に適せざるものは、断然と之を廃停して拘泥の老醜を破る可し」と、改革に踏み出すことを断乎として支持したのである。」(48~49)

⇒ここまでは、ダメ天皇であっても国家が回るようにしなければならないと言っていて、ここから続く部分(後出)では、天皇は明天子になってもらわなければならないと言っているのですから、矛盾していることに坂本は気付いていないようです。
 実のところは、国政一般には天皇は関わらないような政治制度を構築しつつも、秀吉流日蓮主義の総帥役だけは天皇にやってもらう・・外交大権・統帥大権だけは天皇に行使してもらう(コラム#省略)・・以上、天皇にはそのための識見は身に着けてもらう必要があった、ということなのです。(太田)

(続く)