太田述正コラム#12598(2022.2.27)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その22)>(2022.5.22公開)

 これを機に、天皇の住居を奥御殿(後宮)から表御殿(御常御殿)に移して、毎日御学問所<(注41)>に出勤し、万機の政務に関して輔相の奏聞を聞いて裁断をくだすことになった。・・・

 (注41)書斎。「午前10時半、天皇は軍服に着替えてご学問所(天皇が勉学をしたり書斎として使ったりする場所)へ向かい、午前の執務を行ないました。
 正午、昼食のため、ご学問所から戻るやいなや軍服からフロックコート(丈の長いタキシード)に着替え。フロックコートは、明治天皇にとって、政務以外で着用する普段着でした。天皇・皇后が別々のテーブルで取る昼食のメニューも洋食が多かったようです。昼食を終えた午後3時半、天皇は、再度軍服に着替えてご学問所へ向かいました。」
https://www.touken-world.jp/tips/9177/
 フロックコート(Frock Coat=Prince Albert coat)は、「19世紀中頃から20世紀初頭にかけて使用された昼間の男性用礼装である。ダブルブレストで黒色のものが正式とされ、フロックコートとシャツ、ベスト、ズボン、ネクタイで一揃いになった。その後モーニングコートに取って代わられ、現在では前合わせがシングルのものも多く見られるようになり、結婚式で使われるくらいになった。
 ダブルブレストの上着の起源はポーランド軽騎兵・ウーランの服装であり、乗馬の際に風が入らないように前合わせがダブルで襟が高くなったと言われている。そして、これらの特徴を持った上着は18世紀には軍服として使われていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88

⇒大久保らが、外交(開戦)と統率だけを明治天皇から始まる歴代天皇にやってもらうために、自分の執務は広義の軍事に係るもののみなのだ、と、明治天皇本人に叩き込もうとして、軍服を着せた、ということでしょう。
 それにしても、フロックコートまで軍服由来だったとは・・。(太田)

 <更に、>東京遷都を機として天皇の日常は一変した。
 一と六のつく日の休日を除いて、毎日、習字や漢学、史書の講義など本格的な帝王教育が始まった。

⇒明治天皇は、当初、まだ未成年だったのですから、いくら「執務」対象は広義の軍事に係るものだけとはいえ、国務全体について形式的責任を負う以上、理解をした上で法令等に署名しなければならないのですから、現在の中高生並み以上に勉強をする(させられる)のは当たり前です。(太田)

 また・・・、身体の鍛錬と軍人教育をかねて、日々乗馬の訓練を開始する。<(注42)>

 (注42)「明治天皇の趣味として有名なのが乗馬です。幼い頃の天皇は、お供の者の背に乗り遊んでいました。木馬をプレゼントされた際にはとても喜び、毎朝またがっていたほど。15歳になった天皇は、乗馬を嗜むようになり、ご苑を馬に乗って颯爽と駆け抜ける日々を送っていました。」(上掲)

⇒これは、大久保らが、明治天皇の趣味を利用して軍事教育に役立てたということでしょう。(太田)

 天皇の侍従にも、慣例を変更し、公家以外の武士出身者が加えられた。・・・」(50~51)

⇒最初だけ、侍従長が3人もいた・・公家出身の徳大寺実則、武士(長州藩)出身の河瀬真孝、公家出身の東久世通禧・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%80%AC%E7%9C%9F%E5%AD%9D
というのは面白いですね。(太田)

画一的な中央集権化政策にもっとも反発したのは、薩摩藩であった。
 薩摩藩では、すでに1869(明治2)年2月、戊辰戦争の主力だった下級士族の圧力のもと、版籍奉還にさきだって、西郷隆盛が参画して藩政改革が開始されていた。・・・
 これは、・・・長州藩など他の諸藩と比較して、格段に下級士族の利益を優遇するものであった。
 しかも、軍事的には戊辰戦争時の兵力を温存することを意味し、結果として薩摩藩の軍事的自立性を強め、それゆえにさまざまな憶測を生じさせることになったのである。
 薩摩藩の反発は、具体的には、1870(明治3)年9月の東京常備兵退去問題にあらわれた。
 当時、薩摩、長州、土佐、肥前の四藩から、新政府を守衛するために、藩兵が6ヵ月交替で招集されていた。
 しかし薩摩藩は、交替兵の到着を待たず、在京常備兵を帰藩させ、以後の常備兵の提供も拒否したのである。<(注43)>
 
(続く)