太田述正コラム#12600(2022.2.28)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その23)>(2022.5.23公開)

 (注43)「明治四年(一八七一)八月二十日、兵部省は廃藩にともない従前の各藩常備兵を解隊し、東京・大坂・鎮西・東北の四鎮台を設置した。・・・兵部省は同時に、鎮台本・分営の常備兵は旧藩の常備兵を召集してあてるとともに、大中藩の常備兵はその県下へ一小隊ずつ備えおくこと、小藩でも地方の形勢により多少の兵隊を備えおくことなどを指示している(兵部省第七三)。また、十二月にはこれを府県の管轄に移した(兵部省第一九〇)。・・・
 六年<(一八七三)>一月十日、徴兵令が公布され、国民皆兵の方針が示された。」(α)
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-02-03-01.htm
 「戊辰戦争における官軍、すなわち明治新政府の軍は、薩摩・長州・土佐など諸藩の軍の集合で、西郷隆盛、大村益次郎、板垣退助らがそれぞれ指揮しており、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。明治政府直属の御親兵も、長州藩の一部部隊を元に諸藩の在京の浪人を集めて組織されたものだった。
 大村や西郷従道、山縣有朋・・・らは、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。これは、近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである。しかし、これには身分・家格を廃して四民平等を導入せねばならず、すなわち江戸時代の特権階級のうち最大の人口を占める武士の解体を意味する。そのため、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者を多数抱えており、また西郷隆盛も「壮兵」といって、中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村が暗殺されたこともあって構想は一旦は挫折することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E4%BB%A4 (β)
 「明治3年(1870年)12月、山縣有朋は当時鹿児島藩(薩摩藩)の政務にあたっていた西郷隆盛に対して、天皇と中央政府を守るために薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提案した。これは当時中央政府に属していなかった西郷を薩摩藩の親兵入京を口実に政府内に入れることで、政府の強化を図る側面もあった。ただ、この構想には複雑な政治的背景があった。木戸孝允はこの御親兵の力を背景に廃藩置県やそれを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政策を一気に実施しようとした。だが、大久保利通は木戸や大隈重信が進める急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と西郷の入閣はこの流れを変える足がかりになると考えたのである。
 これを受けて西郷は明治4年1月4日に鹿児島を出発して東京に向かったが、その際に出された「西郷吉之助意見書」には冗官の整理や府藩県三治制の維持、鉄道建設などへの批判など、木戸・大隈路線への批判、大久保路線の支持とも受け取れる言辞も存在した。だが、途中で大久保・木戸と合流して両者の意見を聞き、更に東京では大隈らが西郷が中央集権化に反対して薩摩藩の独立やクーデターを起こすのを危惧している(『世外侯事歴 維新財政談』)ことを知った西郷は政争の深刻化を危惧して、政治的な問題については新政府官僚への薩摩藩などの倒幕功労者の起用の提言に留め、自らは専ら新制軍隊の編成に力を注ぐこととして一旦鹿児島に戻って準備を開始した。
 2月13日(4月2日)、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」として発足した。
薩摩藩-歩兵4大隊・砲隊4隊
土佐藩-歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲兵2隊
長州藩-歩兵3大隊
 長州藩は御親兵への献兵を出し渋ったため、薩長土の中では最後に招集に応じた。御親兵は名目上は兵部卿有栖川宮熾仁親王を長とし、公称は1万人であったが、実質は8,000人もしくはそれ以下であったと言われている。
 薩長土三藩としては藩兵を維持するための財政負担が大きく、その負担を政府に肩代わりさせられることが三藩が献兵に応じた理由に挙げられる。
 だが、政府にも御親兵を維持するための財政的余裕が無く、早くも3月には宮内省の予算から10万両が維持費の名目で兵部省に移されている。それが、木戸・大隈の主張する地方行政組織と税制の改革着手の主張を後押しした。また、大久保・西郷の主張する維新功労者の登用の先駆けとして明治3年の大蔵省・民部省分離の際に、木戸・大隈派に楔をうつために大久保の推挙によって日田県知事から民部大丞に起用された松方正義からも財政問題の打開には最終的には地方行政組織と税制の改革しかないとする意見が寄せられると、大久保・西郷側も次第に木戸・大隈側に歩み寄りを見せた。7月14日(8月29日)の廃藩置県の断行には御親兵そのものの威力もさることながら、その整備を巡る諸問題の浮上があったのである。
 御親兵は廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初の国軍として機能することになった。その後、徴兵令の施行とともにその役目を新軍隊に譲って本来の業務である皇居警護に専念することになり、明治5年3月9日(1872年4月16日)には近衛と改称され、明治24年(1891年)には陸軍の近衛師団となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%A6%AA%E5%85%B5 (γ)

⇒「注43」からも分かるように、日本史における軍制研究の手抜きの表れなのか、同じものについて、「各藩常備兵」(α)、「諸藩の軍の集合」と「御親兵」(β)、「御親兵」(γ)、と、明治新政府が動かせた兵力の範囲も、明治新政府の直轄兵力の呼称も、統一されていないようであるのは困ったことです。
 なお、この「注43」の中に、山縣有朋が、下野中の西郷隆盛に中央施策の提案を行ったという話が出てきますが、これは、私がかねてから指摘しているところの、山縣が、隠れ薩摩藩士だった、ということ(コラム#省略)抜きには、説明が付かないはずです。(太田)

 こうした予期せぬ薩摩藩の対応に、新政府内では不安と憶測が飛び交い、薩摩藩がクーデターを行うのではないかという風聞が拡大することになったのである。・・・」(57~58)

(続く)