太田述正コラム#1561(2006.12.11)
<支那は民主化できるか(その2)>

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               記

 会社で、仕事の合間に愉しく読ませてもらっております。
 自分も海外駐在(ハンガリー・ソ連・ロシア・イタリーだった)が永かったので 外国の歴史・国民性・民族性に関わる貴コラムには興味を持って読んでおります。
 リトヴィーネンコ殺害事件に似たような国家テロ?的な事件はソ連崩壊直後のロシヤでは身の周りにも起きたことがありました。同国、裏ではますます凶暴化していくのではと危惧しているのは自分だけではないでしょう。

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 (2)近代支那における自由・民主主義の発展
 少なくとも下記の6つの主要フェーズを経て支那は政治的近代化を遂げてきた。

 第一は、日本の明治維新に共感を覚えた康有為(Kang Youwei。1858??1927年)や梁啓超(Liang Qichao。1873-1929)の影響の下で推進された1898年の戊戌の変法(Hundred Days Reform)は、失敗に終わったけれど、近代化への道を指し示した。
 第二は、1911年の辛亥革命だ。孫逸仙(Sun Yatsen。1866??1925年)が共和制支那の最初の大統領(中華民国臨時大総統)になった。
 第三は、1919年の五・四運動(5.4運動。May Fourth Movement)だ。これは、日本を主たるターゲットとして行われた排外運動であるとともに、学生やインテリを中心とした支那の自己覚醒運動でもあった(コラム#713)。彼らは、白話文運動や新文化運動を通じて、全面的な欧米化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などを推進した(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95(12月11日アクセス)も参照した)。そしてその2年後、第一回の中国共産党大会が開催された。
 第四は、1927年末に蒋介石(Chiang Kai-shek。1887??1975)が中国国民党を掌握し、翌年南京の国民党政府の首班になったことだ。この政府は、欠陥だらけだったし、当時の支那は外国の租界だらけだったけれど、混乱していた当時支那に秩序らしきものをもたらすかのように見えた。
 第五は、1949年の毛沢東(Mao Zedong。1893??1976年)による中華人民共和国の樹立だ。ここに至ってようやく支那は19世紀以来の日本と欧米の帝国主義勢力の軛から解放され、完全な主権を回復した。
 第六は、1978年のトウ小平(Deng Xiaoping。1904-97)による改革開放(reform and opening-up )政策の開始だ。

 この間、支那は二度にわたって反動期を経験した。
 一回目は、1915年から1916年にかけての、袁世凱(Yuan Shikai。1859-1916)による帝政復活(コラム#234)であり、二回目は、1966年頃から1976年頃にかけての毛沢東による文化大革命だ。
 しかし、支那よりずっと小さいフランスで、1789年の革命以降、安定した共和制樹立までに二度の帝政を含む81年間を要したことを考えれば、支那がこれらの反動期を経験したのは当たり前だ、とも言えよう。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.atimes.com/atimes/printN.html
(12月9日アクセス)による。)

3 感想

 支那をフランス、すなわち欧州と比較して、その自由・民主主義化の紆余曲折を暖かく見守ってやれ、とゴセットが言うのは語るに落ちた、というところですね。
 要するに、欧州も支那も、それぞれの文明が邪魔をしてアングロサクソン文明由来の自由・民主主義を継受することは容易ではない、ということなのです。
 支那の場合を見てみましょう。
 孟子は、決して民主主義論者などではなく、「君主の地位ですら家臣に乗っ取られる下克上の時代において、君主が下の者によく配慮しなければ危ないという指摘をしたまで」(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90。12月11日アクセス)ですし、支那は、確かにカースト制はなかったかもしれないけれど紛れもない階級社会だったからこそ共産党が勢力を伸ばせたのですし、儒学や文学の力を問う科挙は支那の知的エリートを型にはめてしまったのですし、この科挙に通った連中が運営していた支那の伝統的統治機構など、硬直化していたに違いないのです(典拠省略)。
 また、道教に無為の観念があることは確かだけれど、これは政治からの逃避の観念なのであって(コラム#1421)、そんなものが政治的自由主義の源たりうるはずがないのです。
 更に言えば、康熙帝については、唐の太宗(598??649年)とともに、中国歴代最高の名君とされており(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D
。12月11日アクセス)、例外中の例外だと考えた方がよいでしょう。
 つまり、漢人文化には、自由・民主主義と親和性のある要素など皆無に近い、ということです。
 ゴセットが言う6つのフェーズにせよ、2回の反動期にせよ、それらは政治的近代化・・政治システムのアングロサクソン化・・ができずにもがき苦しむ近代支那が演じたダッチロールなのであって、いまだに支那は、政治的近代化にむけて、有意味な一歩を踏み出していないに等しい、と私は考えているのです。
 私は、それぞれ、アングロサクソン文明とは全く異質の文明を背負っているフランス(欧州)とトルコと支那を比べると、トルコがこの中では政治的近代化を最も円滑に行った、と思います。
 それは、トルコ文明においては遊牧文化的要素が強く、ケマル・アタチュルク(コラム#163??167)が、この文化を生かしてトルコの政治的近代化を推進したからではないでしょうか。
 とすれば、支那もまた、政治的近代化を本当に図りたいのであれば、Jiang Rongが示唆しているように、その遊牧文化的要素に着目すべきなのであり、胡錦涛政権のように儒教、ひいては漢人文化を復権させているのは、ピンボケもいいところだ、ということになります。
 やはり胡錦涛政権は、政治的近代化など図る意思はない、ということなのではないでしょうか。

(完)