太田述正コラム#12618(2022.3.9)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その32)>(2022.6.1公開)

 「1881(明治14)年3月、・・・参議<の>・・・大隈が左大臣有栖川宮かぎりという条件付きで意見書を秘密裡に提出した。
 結果的に、この大隈意見書の「密奏」が、明治十四年政変の幕を切って落とすことになるのである。」(88)

 (注57)「1881年大隈重信一派が明治政府中枢から追放された事件。当時,藩閥政府に対抗する自由民権論者は国会開設,憲法の早期制定を強く政府に迫っていた。[明治12年12月に参議山縣有朋が立憲政体に関する意見書を提出したことにより、太政大臣三条実美と岩倉は参議から立憲政体に関する意見を天皇に提出させることとし<、>]2月各参議に意見を徴したが,同年3月政府部内で国会開設,憲法制定をめぐり意見が食違い,大隈が単独で左大臣有栖川宮に「政党内閣制,本年中に英米流の憲法を制定,2年後に国会開設」という意見書を提出したことに端を発し,大隈は伊藤博文と対立するにいたった。時を同じくして北海道開拓使長官黒田清隆が国費 1400万円をかけた事業を,同じ薩摩出身の五代友厚に 38万円 (30年賦) で払下げ決定をしたいわゆる開拓使官有物払下げ問題が生じ,大隈はこれに強く反対した。ここで,伊藤ら薩長派は大隈,福沢諭吉らに反政府陰謀があったという口実で,10月11日御前会議で大隈一派を罷免する一方,開拓使払下げを中止する決定を行い,また翌12日には「明治23年に国会開設と憲法を制定する」という詔勅を出すにいたった。この政変は単に国会開設問題だけでなく,維新以来の財政政策を舞台とした大隈と松方正義および伊藤らの間の権力闘争の側面があり,以後,明治政府の政策は伊藤,黒田,松方,そして山県有朋らの薩長藩閥グループによって決定されていくこととなった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89-141080
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89 ([]内)
 「大隈の意見書は・・・慶應義塾で教えを受け、太政官の大書記官を努めていた矢野文雄<が>後年、「わが輩が書いたもののやうである」と回想している。・・・
 福沢の弟子である<この矢野ら>大隈系官僚は国会早期開催に積極的であったが、福沢は自由民権運動自体も「無智無識の愚民」と評するなど冷淡であり、国会開設も時期尚早であると考えていた。・・・
 <また、>しばしば政変はプロイセン風の憲法を作ろうとする伊藤と<英国>風を目指す大隈の路線対立が原因とみなされることが有るが、伊藤は政変の時点では明確にプロイセン流憲法をめざしていたわけではなかった。伊藤は政変前の7月2日に井上毅からプロイセン流の憲法を作るよう求められていたが、伊藤はこの時点でははかばかしい反応を示していなかった。また岩倉も9月に出された井上毅の「内閣職制意見」にあるプロイセン流の天皇親政意見には同意しなかった。・・・
 辞職した大隈と大隈系官僚は政党結成に動き、立憲改進党設立の母体となる。しかし大隈は明治21年(1888年)<に政府復帰し、外務大臣を努めている。大隈の回想によれば、岩倉は明治16年(1883年)に没する直前に「薩長政治家にあやまられて、我が輩(大隈)を退けた事を悔ひ」、謝罪したとされる。
 翌明治15年(1882年)1月1日、黒田が参議および開拓長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退いた。これにより政府内は伊藤を中心とする長州閥の主導権が確立された。開拓使も2月8日に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられた(三県一局時代)。またこの年には伊藤が憲法調査のためドイツ及び<英国>に留学することになるが、ドイツにおいてローレンツ・フォン・シュタインと出会ったことで、プロイセン流の憲法作成に傾倒していくこととなる。」(上掲)

⇒政変の翌年、「矢野は1882年(明治15年)に京都において、急激な改革を行えば人心を失う恐れがあるので、漸進主義によるべきであると演説している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E9%BE%8D%E6%B8%93
ことから、大隈の意見書は、福澤はもとより、執筆者の矢野自身の考えとも異なる内容だったということになるわけであり、これは大隈が自分の考えを矢野に話してまとめさせたものだった、と見るのが自然でしょう。
 で、全参議からの意見書の提出は、山縣が意見書を提出してから、山縣の慫慂を受けて三条と岩倉が実施させたものであることを想起すれば、私は、当時、実質的な日本の最高首脳であった山縣が、自身以外の全参議の秀吉流日蓮主義度を見極めるためにそうさせた、と、見るに至っています。
 その結果、大隈は不合格となり、開拓使官有物払下げ問題を口実にして大隈を政府外へと追放した、と。
 ちなみに、大久保利通の死以降、私見では実質的な日本の最高首脳であり続けた山縣は、1883年(明治16年) に内務卿に就任しますが、1885年(明治18年)12月22日に「内閣制度が成立するまでは、<(大久保が創設し、自らその長である内務卿に就任して以来、)>内務卿が実質的な首相<(=最高首脳)>であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%8D%BF
ことは、この私の主張を裏付けるものであり、そんな山縣が、内閣制度が発足し、伊藤博文が初代首相になっても、引き続き内務大臣の座にあったのですから、山縣がその座を一旦降りる1888年(明治21年)12月4日まで、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
山縣が引き続き実質的な政府最高首脳であり続けたことに加え、実質的な首相もまた、初代首相の伊藤や二代目首相の黒田清隆ではなく、山縣だったことになり、1888年(明治21年)2月の大隈の政府復帰(外相就任)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
は、既に、秀吉流日蓮主義の遂行態勢が整ったとみて、実質的な首相であったところの山縣が、直接、大隈への罪滅ぼしを行った、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)