太田述正コラム#12632(2022.3.16)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その2)>(2022.6.8公開)

 「「禁中並公家諸法度」の翌月<の1615年8月>には「公武法制応勅十八箇条」<(注3)>が公布され、将軍は三親王、摂家以下の公家、諸侯を支配することと、朝廷に政治に関する問題は奏聞しないことを明言した。

 (注3)「徳川家康が、後水尾天皇の勅命を受けて御所の紫宸殿に掲げるために定めたとされている18ヶ条。ただし、今日の法制史においては「偽法令」であるとされている。
 『徳川禁令考』前集一に諏訪氏所蔵として引用されており、武家政道と天下太平について定めたものとされる。ところが、その内容は当時の幕府の法令に形式に則しておらず、特に第18条に至っては当時存在する筈の無い「東叡山」・・永寺の山号。同寺の創建は元和元年から10年後の・・・1625年・・・で、山号もこの時に天海が命名した。・・ という言葉が登場するなど矛盾が多く、今日の法制史の研究者の間ではその存在を否定されており、公家政権(朝廷)に対する江戸幕府の優越的地位を示すために創作された偽文書であると考えられている。また、岡野友彦は源氏長者の地位を本来持っていた公家の役職としての淳和奨学両院別当としての意味から武家の棟梁としての意味に換骨奪胎していることに注目し、この文書を偽造した人物が徳川将軍家が源氏長者の地位を根拠として公家政権(朝廷)の支配を行おうとした方針を文書に反映させているとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E6%B3%95%E5%88%B6%E5%BF%9C%E5%8B%85%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%AE%87%E6%9D%A1
 「諏訪氏(すわし/すわうじ)は、日本の氏族の一つ。諏訪大社上社の大祝(おおほうり)、または信濃国諏訪郡の領主を司った家柄である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%B0%8F

 つまり、現実的な政治には関与せず、学問と技芸を行うのが朝廷の役割とされた。・・・

⇒「注3」のような次第なのですから、刑部は、この法度が偽法令とされているけれど自分はかくかくこういう理由でそうは思わない、と断った上で、その内容を紹介すべきでした。(太田)

1846<年>・・・2月13日に・・・孝明天皇が践祚した。
 閏5月には、アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドル<(コラム#12464)>が浦賀に来航し、浦賀奉行を介して日本側に通商を求めた。
 老中阿部正弘(備後福山藩主)は、新たに外国と通商を結ぶことは国禁であることと、外交は長崎を窓口とすることを通告させた。
 当時の幕政は、前年2月における水野忠邦(遠江浜松藩主)の老中辞職後、阿部正弘が老中首座に就任し指導していた。
 阿部が直面したのが、度重なる外国船の来航による海防問題であった。
 彼は、のちに「幕末の四賢侯」<(注4)>と呼ばれる薩摩藩主島津斉彬、越前福井藩主松平慶永、伊予宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、土佐藩主山内豊信(とよしげ)などの有力諸侯と連携を図った。」(7、17)

 (注4)「幕末に活躍した4人の大名をいう。このうち斉彬は<1858>年7月・・・に急死するが、その後も春嶽・容堂・宗城の三侯は公私にわたる会議・会合に薩摩国主の島津久光を加えたので、そうした会合は俗に「四侯会議」「四賢侯<(しけんこう)>会議」などと呼ばれるようになった。・・・
 有力な親藩・外様の諸大名も幕政に参与させるよう改革を求め<、>阿部<が>それに応える形を採った<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%9B%9B%E8%B3%A2%E4%BE%AF

⇒刑部は四賢侯なる呼称が1846年当時にはまだ存在しなかったことにはさすがに注意喚起しているけれど、「注4」は、四賢侯なる呼称があたかも当時既に存在していたかのような記述ぶりである上、その四賢侯が阿部正弘に自分達を含む親藩・外様の諸大名にも幕政に参与させるように求めたかのような記述になっていますが、山内豊信が土佐藩主になったのは1848年12月ですし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%AE%B9%E5%A0%82
島津斉彬が薩摩藩主になったのは、更に遅く、1851年2月であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
どちらも、当時はまだ、「侯」、すなわち「大名」、ではありませんでしたし、松平慶永が山内豊信と初めて出会ったのは、実に、1857年10月になってから(於福井藩江戸上屋敷)でした
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/bakumatumeijihiwa_d/fil/fukui_bakumatsu_02.pdf
から、1846年当時は、まだ四賢侯なんて影も形もなかったのであり、これらの記述は不適切であって、諸大名の声を幕政に反映させることについてイニシアティヴをとったのが、私見では実は、阿部、つまりは幕府側、だったのに、そうではなかったかのような誤解を、ウィキペディアと刑部本のそれぞれの読者に与えてしまいかねません。

(続く)