太田述正コラム#12640(2022.3.20)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その6)>(2022.6.12公開)

 「天皇は、廷臣たちが開国論者の太閤鷹司<政通>や条約勅許を求める堀田の意見に同意することが心配であった。
 だが、天皇が期待するような反対意見は、二条<斉敬>と武家伝奏広橋光成のみであった。
 二条は貿易を拒絶し、征討してもよいと過激な意見を寄せ、同じく広橋も条約勅許は許容できないとしたが、ほかの否定的な意見としてはせいぜい鷹司輔煕、議奏久我建通・徳大寺公純・坊城俊克が示した、畿内に外国人が入ってくることは認めないという程度のものであった。
 慎重派の意見としては、徳川御三家(尾張・紀州・水戸)と大名にも意見を求めるべきだとした近衛と一条、そして閣老と大名にも聞くべしとした三条が挙げられる。
 その他アメリカ側の要求が避けられない場合は、四道に将軍を設置して防備に努めるべきだというもの(武家伝奏東坊城聡長)、現状では二、三ヵ条の要求を許可し、武備充実の後に元に戻すというもの(議奏万里小路正房)があった。
 総じて幕府の申し出に反対するのではなく、条件をつけながらも許容する姿勢を取っていた。・・・
 彼らの意見に物足りなさを感じた孝明天皇は、正月25日に参議以上(権大納言・権中納言・参議など)、27日に頭中将と頭弁<(注11)>に同じく意見を求めた。・・・

 (注11)「蔵人頭の定員は2名(「両頭」)で、いずれも四位の官人が任じられた。両頭は文官と武官が分け合い、武官の蔵人頭は近衛府の次官である近衛中将が兼帯して補任されることが多かった。平安時代末期には、文官である弁官(大弁または中弁)から選ばれる蔵人頭の通称である「頭弁」(とうのべん)と並びたつ慣例が生まれた。・・・頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと<される。>・・・
 頭中将は天皇の側近くに仕えることが主たる務めとされ、将来の高官候補者である上流貴族の子弟が、近衛少将から近衛中将に昇進した後に蔵人頭を兼ねて頭中将となり、その後、公卿に昇進する例が多かった。
 江戸時代に入ると、近衛(権)中将が蔵人頭を兼ねて頭中将に昇進する経路が確定し、大臣家からの2名(正親町三条実有・中院通知)を例外として羽林家から任じられることになった。しかし、名家出身の弁官が五位蔵人(定員3名)を経て頭弁に昇進する経路も確定してい中で、事務に長けた頭弁と五位蔵人の3名が人的に結びついて事務に通じていない頭中将を苛めるケースもあり、中には心労で亡くなった者もいたため、「頭中将になると殺される」と影で言われていたとされる(下橋敬長『幕末の宮廷』)。そのため、頭中将の中には頭弁や五位蔵人達を飲食などで懐柔して味方に取り込む者もいたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E4%B8%AD%E5%B0%86

 この諮問に対して23人の公家から回答が寄せられている・・・。
 今回は開港に賛成する意見が少数派であった。
 特筆すべきは九条幸経で、彼は世界情勢を考慮して開港はやむを得ないと主張した。
 幸経は九条尚忠の養子であるが、実父は開国論の鷹司政通で、鷹司の影響によって開国論を支持したと思われる。
 そのほか、醍醐忠順(ただおさ)のように、現状では外国を打ち払うことはできないため、開港に理解を示す者もいた。
 しかし、23人のうち18人は、開港には反対論であった。
 冷静な<反対論>の一つは正親町三条実愛のもの<だったが>、・・・<その>盟友の中山忠能は激しい攘夷論であった。・・・
 中山以外にも、場合によっては戦争も辞さないとする回答を、正親町実徳(さねあつ)、広幡忠礼(ただあや)、室町(四辻(よつつじ))公績が示している。・・・」(28~29、31)

⇒このように、当時の朝廷には、開国論者(佐幕論者)、慎重派(中間派)、攘夷論者、がいたわけですが、近衛忠煕が、孝明天皇が攘夷論に近いことを知っていて、島津斉彬と相談の上で、あえて諫言しなかった上に、同じ摂関家である二条家に頼んで、彼我の軍事力のことなどについて、下層に行くほど無知な非摂関家の公家達の間で攘夷論が起こるのを止めようとすることなく、彼らの間で、ひいては全国の武士達の間で、倒幕機運が盛り上がるようにしてもらった、というのが私の見方です。
 また、開国論者(佐幕論者)、なるものは、これも同じ摂関家である鷹司家と九条家に対し、やはり島津斉彬と相談の上で近衛忠煕が依頼してそれらしく演じてもらった、と。
 近衛忠煕が、どうして、そんなアクロバット的な画策をする必要があったかについて、私見を、次回のオフ会「講演」原稿でお示しする予定です。(太田)

(続く)