太田述正コラム#12644(2022.3.22)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その8)>(2022.6.14公開)

 「<1559年4月>22日に鷹司政通・輔煕、三条実<萬>、近衛忠煕の落飾・慎、東坊城には永蟄居が命じられ<た。>・・・

⇒次回のオフ会「講演」原稿で改めて記すつもりですが、当時の五摂関家は実は一体で、孝明天皇と攘夷派とを操ることとし、それによって最小の流血と時間で倒幕を実現することを期し、近衛忠煕が正面にあまり出ないようにしつつ総指揮を執り、二条斉敬が親(困ったちゃん)孝明天皇を装って同天皇を操り、九条尚忠及び一条忠香・実良父子が佐幕を装い続け、そして、鷹司政通・輔煕父子が途中で装っていた佐幕から攘夷派へと装って転換することでもって倒幕の狼煙を上げる、という役割分担の下、1858年に至って、その3月において、(近衛忠煕の走り使い的存在だった(コラム#省略))岩倉具視らに廷臣八十八卿列参事件(コラム#12556)を引き起こさせる形でこの狼煙が高々と上げられた、と、私は見るに至っています。(太田)

 幕府は安政の大獄という大弾圧を加える一方、朝廷との融和を図ろうとした。
 その発端は、・・・1858<年>8月に大老井伊直弼の片腕的存在である彦根藩士長野主膳<(コラム#12472)>が、九条家家臣島田左近<(コラム#12512)>との間で将軍徳川家茂の夫人に皇女を迎えることを相談したことによる。・・・
 10月1日に左大臣近衛忠煕が京都所司代酒井忠義<(コラム#12560)>を自邸に招き、前内大臣三条実<萬>を交えて会談したとき・・・<酒井は、>近衛<から、>・・・有栖川宮との婚約が破談となれば和宮降嫁が実現できるかもしれないと<の感触を得た>。

⇒和宮降嫁の言い出しっぺは実は近衛忠煕だった、と解してよいでしょう。
 その狙いは、承久の乱の時のように、幕府が朝廷を見限り、朝廷を武力討伐して佐幕の新天皇を擁立しようという動きが出て来ることを回避するため、と見るわけです。
 また、このような席に三条実萬が同席していたということは、実萬が忠煕の高級工作員であって、忠煕が幕府に対して完全に秘匿しつつ、実萬に、その嫡男の三条実美ら攘夷派を使嗾させていた、とも。(太田)

 ところが、・・・近衛と三条はともに<1859>年・・・に処分を受け<たこともあり、>・・・再び和宮が注目されるようになるのは、同年8月・・・であった。・・・
 京都所司代酒井忠義は、・・・1860<年>2月16日・18日・19日に和宮の生母観行院<(注13)>の兄である橋本実麗<(注14)>に家臣を遣わして、和宮降嫁について相談させた。

 (注13)橋本経子(つねこ。1826~1865年)。「仁孝天皇の寵愛を受け、胤宮(夭折)、和宮親子内親王の1男1女をもうける。しかし、・・・1846年・・・初頭、仁孝天皇が崩御ののち<、更に>和宮が誕生した。天皇の手がついていた女官は崩御と同時に落飾という宮中のしきたりによって経子は薙髪し、観行院と号した。これによって後宮を離れた経子は、実家の橋本家の屋敷にて和宮を育てた。・・・
 <そして、和宮が降嫁した時、>観行院らは天璋院の意向を無視し、和宮の御所風の生活を重視して江戸風の生活に慣れようとはしなかった。そのため、大奥女中や天璋院とのいざこざも少なくはなかった。観行院は和宮以上に、大奥での生活で天璋院を中心とする江戸方の女中と対立した。・・・和宮の生母にして先帝の典侍である<この>観行院は、大奥において上臈上座の位を授けられる。・・・
 <彼女は、>将軍御台所や側室といった配偶者ではなく、御台所の母という立場で徳川家の墓所に祀られ<ることとなった>唯一の例である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E7%B5%8C%E5%AD%90
 (注14)さねあきら(1809~1882年)。「権大納言・橋本実久の子として誕生。・・・官位は正二位・大納言。・・・和宮が江戸での生活に不測の事態が起きた場合には、京都より実麗を江戸に呼び寄せることを条件とした五箇条を幕府<は>認め<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%AE%9F%E9%BA%97

 18日と19日には近習岩倉具視が同席したが、橋本はなぜ岩倉が来たのだろうかと不思議に感じている。
 岩倉がどこで情報を仕入れたのかはわからないが、彼が和宮降嫁に協力的であったことに違いはない。・・・」(57、61~63)

⇒岩倉具視は近衛忠煕の走り使い的存在であったからこそ、この「協議」の情報を得た忠煕が、(本件の言い出しっぺが忠煕であることを知っている)酒井忠義に頼んで同席させてもらったのだろう。(太田)

(続く)