太田述正コラム#12660(2022.3.30)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その13)>(2022.6.22公開)

「そして三度目の席で大原は、天皇の考えに従わないときは、両名にいかなる危害がおよぶことになるかわからないと、脅迫めいた台詞を吐いている。

⇒「久光ら薩摩兵1000人が随行して大原重徳は江戸へ入<っている>」わけですが、このことが念頭にあって幕閣を脅迫したわけではなく、水戸藩の志士たる藩士達のことが念頭にあって脅迫している(注18)・・脅迫めいたではない!・・と、私は見ていますが、それにしても露骨なことです。(太田)

 (注18)1000人という「人数は藩主<参勤交代時>とほぼ同格のもので」あって、単に「藩主の父というだけの無位無官の人物の行列としては幕府健在のころなら許されない規模であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B9%85%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
というだけのことであり、それ自体を幕府や幕閣が恐れるはずがない。
 在江戸城下の特定の藩・・それが一つであろうと複数であろうと・・によるクーデタの決行の防止や対処の態勢が、江戸では整えられていたはずだからだ。

 この厳然たる態度に2人の老中も負け、遵奉するよう努力すると答えた。
 その結果、6月28日に慶喜の将軍職の就任を認めた(7月6日に任命)<(注19)>。・・・

 (注19)「文久の改革は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。」
 本文で紹介されたもののほか、京都守護職の新設、参勤交代の緩和、洋学研究の推進、軍事改革(幕府陸軍の設置、西洋式兵制の導入、兵賦令(旗本から石高に応じて農民もしくは金を徴収する)の発布、等。(上掲)

⇒慶喜を幕閣の頂点に戴くことの危険性を彼らは十分理解していたわけです。(太田)

 <1862年>7月16日、学習院<(注20)>で議奏の中山と正親町三条、武家伝奏坊城俊克と野宮定功が毛利敬親と面会し、三ヶ条の天皇の文書を渡した。

 (注20)京都学習院。「1862年・・・7月頃より、学習院は桜田門外の変後急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場にあてられるようになり、また翌<196>3年2月、無名の投文・張紙などの横行に対応し陳情建白の類を受け付ける機関となった。その結果学習院では、尊皇攘夷の急進派が集い、国事を議論するようになり、この時期「学習院御用掛」あるいは同「出仕」に任命された高杉晋作・真木保臣・福羽美静ら各藩の志士が、尊攘派公家とともに攘夷決行の密謀をめぐらしたのである。しかし・・・1863年・・・の「八月十八日の政変」により尊攘派公家の処分とともに長州藩などの関係者も出入りを禁止され、陳情建白の受理も停止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E9%99%A2_(%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E6%9C%9F)

⇒6月23日に、関白が九条尚通から近衛忠煕に交替している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
ことが重要です。
 私見では、尚通も忠煕の統制に従っていたわけですが、交替することで、公武合体下の日本の対外政策・・実は対国内政策・・の力点を、忠煕が、開国から攘夷へと切り替えることを宣明した、と、私は受け止めています。(太田)

 その内容は、一、長井の「謗詞一件」の疑いは氷解したこと、二、五月に長州藩に命じた勅使補佐をつとめること、三、世子の毛利元徳も周旋活動を行うこと、であった。
 7月27日、中山らは学習院に毛利を再び呼び、江戸に元徳が下り、敬親は滞京して御所を警護するように命じた。
 これを受けて8月3日に元徳は京都を出発し、19日に江戸に到着する。
 しかし、幕府に渡すため毛利元徳に託された天皇の文書には、薩摩藩にとって不都合な文言が含まれていた。
 国事に斃れた者の祭祀を求める文言<(注21)>のなかに「伏見一挙等にて死亡した者もいる」とあった。

⇒この話と、尊攘堂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E6%94%98%E5%A0%82
や、靖国神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
との関係を、機会を見て見極めてみたいですね。(太田)

 「伏見一挙」は寺田屋事件を指し、そこで薩摩藩尊攘派を処罰したのは島津久光である。
 これを江戸で受け取った大原重徳が独断で「伏見一挙」の文言を削除したため、大きな問題にはならんかった。

⇒忠煕は、事前に、この政策の切り替えを、重徳に知らせる労を取らなかったと見えます。
 件の天皇の文書は、長州藩に対してこの政策の切り替えを伝えることが、最大の目的だったからでしょう。(太田)

 だが、そうした文言を入れるように、京都では長井の公武合体運動が交代し、攘夷論を無視できなくなっていたのである。

⇒とんでもない。
 当時、私見では忠煕が統制していた五摂家が、元から存在していた攘夷論を利用して、いよいよ倒幕目的での幕府の不安定化に本格的に乗り出した、ということなのです。(太田)

 8月18日、久光は毛利からの会見を断り、20日の会見も儀礼的に終わった。

⇒久光は、薩摩藩の中では浮き上がっていて、ホンネでは公武合体派とは雖も佐幕でしたから、近衛家から、この政策切り替えを伝えられていた薩摩藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達経由で、ことの成行を聞いて、久光がむくれた、ということでしょうね。(太田)

 そして21日に久光は江戸を出発する。
 元徳は久光と連携を図りながら、公武合体運動を行うことができなかった。」(96~98)

⇒この辺り、刑部は、典拠を挙げてくれていませんが、事実である、という前提で私のコメントを付してきています。(太田)

(続く)