太田述正コラム#12662(2022.3.31)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その14)>(2022.6.23公開)

 「長州藩尊攘派は、7月に「謗詞一件」が氷解すると長井の復活を恐れた。
 彼が復帰すれば、藩論が「航海遠略策」に戻るかもしれない。
 それを防ぐには、長井の息の根を止める必要があった。
 長州藩では久坂玄瑞らの断崖運動が功を奏し、・・・1863<年>2月6日に長井の切腹は執行された。・・・

⇒近衛忠煕らに捨て駒として使われた長井の無念さはいかばかりのものだったことでしょうか。(太田)

 公武合体運動を推進してきた・・・正親町三条と中山が危機を感じるのに時間はかからなかった。
 志士の間では岩倉具視・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子を「三奸二嬪」とし、九条尚忠、久我建通、正親町三条実愛、中山忠能、酒井忠義を「五賊」と見なす数え方もあった。

⇒どうして、四奸の久我建道・岩倉具視・千種有文・富小路敬直(コラム#12494)から久我を落とした三奸などということを刑部が言い出したのか、さっぱり分かりません。
 五賊なるものについても初耳ですし、幕府の人間、しかも、京都とはいえ出先の人間である酒井忠義、がその中に入っているのもなんだかなあ、という印象です。(太田)

 <結局、>正親町三条と中山の罪は軽くすんだ・・・。・・・
 勅使の使命を終えた大原重徳が閏8月6日、島津久光が翌日、それぞれ京都に戻った。
 帰着後、近衛邸に向かった久光は、近衛忠煕と忠房、正親町三条実愛、中山忠能、野宮定功と面談した。・・・
 閏8月<10>日・・・に久光は、近衛邸で青蓮院宮尊融親王と三条実美から鹿児島に戻る理由を聞かれた。
 そこで久光は、一、藩主ではなく陪臣である自分が相手では一橋や松平がやりにくいこと、二、薩摩藩内の武備充実を図ること、三、寺田屋事件により藩内情勢が不穏であること、を理由として挙げている。
 二、は江戸から京都への帰路でイギリス人を殺害した生麦事件が起きたことで、その必要が出発時よりも増した。
 ところが、久光に期待を寄せる公家たち<の意見を踏まえた形で、>・・・15日には正親町三条から久光に<天皇の>御沙汰が伝えられた。
 天皇は久光に政治の相談相手として滞京してもらいたいが、諸事情で帰国しなければならないのであれば、その代わりとなる「極密献策」を行ってほしいと述べた。・・・
 閏8月16日に久光は近衛と面会しているが、・・・15日付で息子の島津忠義に宛てた書翰で久光は、彼らが依頼してくるため出発できず、非常に迷惑だと伝えている。
 そして23日、久光は・・・帰国の途についた。・・・

⇒閏8月7日から23日までの2週間余の久光の在京中、近衛忠煕は、藩内で浮き上がっていた久光・・それを自覚するに至っていたはずの久光・・とさえ、3度も近衛邸で会っており、近衛家と薩摩藩の一体ぶりが偲ばれる、というものです。
 で、久光が、本当のところ、どう考えていたのかは分からないけれど、久光が薩摩藩に戻ったのは、用済みの忠煕が、事実上、久光を追い払ったのだと私は見ています。(太田)

 閏8月18日に天皇<は>攘夷を不変としたうえで、廷臣たちに攘夷の所見を求めた・・・。・・・
 即今攘夷を要望したのは、<7人だけだった。>・・・
 天皇<も>内心では即今攘夷には否定的であったが、廷臣たちの回答は即今攘夷の抑止力にはならなかった。
 閏8月14日、長州藩は朝廷に提出した上申書で、攘夷の可否について会議を開く必要はなく、単独でも攘夷を実行すると述べていた。
 これに対して閏8月27日、中山忠能は長州藩家老毛利筑前と益田弾正を呼び、長州藩が単独でも攘夷を実行しようという姿勢を褒め、幕府に即今攘夷を求める天皇の考えを伝えた。・・・

⇒一橋慶喜を幕府のナンバーツーに送り込むことに成功し、そのための手駒として使った島津久光も江戸と京都から追い払い、態勢をが整ったので、関白の近衛忠煕(と薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達)が、事前に、内々、長州藩に伝達し、上申書を出させた上で、ビビる孝明天皇を「強姦」し、即今攘夷を長州藩に正式に命じた、ということです。(太田)

 武備充実を主張していた三条たちも、次第に即今攘夷を支持するようになる。」(98、101~106)

(続く)