太田述正コラム#1576(2006.12.19)
<米国慈善事情(その3)>

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<継続読者α>
 毎日色んな分野のコラムを執筆されるパワーにはいつもすごいなと感心するばかりですが、日々勉強させていただいてます。将来の日本のためにもより多くの方にこのコラムを読んでもらいたいと思いますので、無料コラムも継続されることを強く希望致します。

<継続読者β>
 私は米国の会社(産業用機械)をパートナーにする日本法人を経営して20年になりました。実際は自分で立ち上げ、社員は10名となりました。太田様の発信される情報はたいへん貴重で質の高いものです。継続していただけるよう願っております。

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―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「あらゆる人間の生命の価値は同じはず」というゲーツ夫妻の考え方を文字通り実践しているのが、クラヴィンスキー(Zell Kravinsky)(注2)だ。

 (注2)15年前まで、彼は30歳そこそこのベンシルベニア大学のルネッサンス学者兼詩人だったが、その後、大学のキャンパスの近くの不動産への投資を始め、瞬く間に大富豪となった(http://www.post-gazette.com/localnews/firstlight/20030723firstlight0723p1.asp。12月19日アクセス)。(太田)

 彼は、数年前、40代半ばの頃、彼が稼いだ4,500万ドルの資産の大部分を医療関係の福祉団体に寄付した。残したのは自分達の住んでいる家と一家が食っていくための最低限の経費相当分だけだ。
 その上、彼は腎臓の一つを全く知らない患者のために摘出手術を受けて提供したのだ。
 クラヴィンスキーは、「腎臓を提供することによって自分が死亡する確率は4,000分の一であるのに対し、自分がその腎臓を提供しなければ、一人の人間が死んでしまう。自分の命を見知らぬ他人の命より4,000倍も貴いものと考えることは悪徳だ(obscene)」という考えだ。
 この時は、さすがに彼の奥さんも反対した。クラヴィンスキー夫妻には4人子供がいるが、子供の誰かが腎臓機能が低下して、腎臓移植が必要になり、適合する腎臓がクラヴィンスキーのものしかなかった時にどうするのか、というわけだ。
 しかし、クラヴィンスキーに言わせれば、いくら自分の子供が可愛いからと言って、その命を見知らぬ他人の子供の命より何千倍も貴いものと考えることは許されないのだ。
 彼は、仮に見知らぬ他人の子供2人の命を救えるのなら、自分の子供1人が死んでもやむをえない、と断言する。

 このクラヴィンスキーほどではないが、バフェットも立派だ。
 自分の3人の子供達のためには、数十万ドルずつしか残さない、と公言しているからだ。
 仮にバフェットが100万ドルずつ子供に残したとしても、彼は99.99%の資産を慈善目的に使うことになる。

 ではゲーツはどうか。
 ゲーツは、これまで300億ドル近くを自分の慈善目的の財団に寄付したけれど、彼が世界一の金持ちであることには変わりはなく、530億ドルもまだ持っている。彼のシアトル近郊の自宅の広さは6万6,000平方フィートもあって1億ドル以上する。固定資産税だけで年間100万ドルかかる。
 しかもゲーツは、1994年に3,080万ドルで買ったレオナルド・ダ・ヴィンチの手書きの本を所有している。
 これだけの資産をまだ残していて、果たして彼は、「あらゆる人間の生命の価値は同じはず」などと公言できるのか、と批判されてもやむをえまい。
 しかしゲーツは、ゲーツとともにマイクロソフトを立ち上げたポール・アレン(Paul Allen)が、1983年に同社を去った後、8億ドルを慈善目的に使ったけれど、現在でもなお米国で5番目の富豪で160億ドルの資産を持っているのに比べればはるかにマシだ。
 つまり、アレンは自分の資産の5%しか寄付していないのに対し、ゲーツは35%も寄付している勘定になるからだ。

4 補論1:ゲーツとバフェット

 ところで、ゲーツとバフェットが親友であることは有名です。
 そして、バフェットがゲーツ夫妻の慈善財団に残りの資産の大部分を逐次寄付する、ということが今年6月に発表されたことは記憶に新しいところです。
 一体われわれはこのことをどう受け止めたらよいのでしょうか。

(続く)