太田述正コラム#12664(2022.4.1)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その15)>(2022.6.24公開)

 「青蓮院宮・・・は島津久光から「藤原氏の権限を削除すべき」・・・という意見を受けていた。
 つまり、藤原鎌足を祖先とする近衛などの摂関家が朝議を独占することを否定した。・・・
 なぜ、久光が親戚の近衛家を否定するような意見を青蓮院宮に送ったのか。

⇒と、自分で書いておきながら、刑部は、彼なりの回答を示してくれていません。
 既にお分かりだと思いますが、久光は、薩摩藩の中で浮き上がっていた自分、そして、藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達と近衛忠煕がつるんで、自分を使い捨てしたこと、に対する鬱憤を、こういう形で、近衛家を頂点とする藤原氏系公家達全員にぶつけたわけです。(太田)

 近衛は関白就任を好まなかったように、その後も辞意をもらしていた・・・。

⇒これぞ韜晦ってやつです。(太田)

 久光は近衛のやる気のなさを感じ取り、彼に代えて青蓮院宮に期待を寄せたのであった。
 青蓮院宮は国事御用掛の設置を渋る近衛の態度に憤る。・・・
 結果的に見れば、渋っていた近衛が折れたといえる。・・・

⇒近衛忠煕を元締めとする五摂関家にとっては、攘夷を叫ぶ志士達だけではなく、不満が充満していた下級公家達だって、使い甲斐のある人々であることから、彼らのガス抜きを図りつつ、彼らを形の上で処遇する、国事御用掛の設置、を彼らに裏から手を回してけしかけ、何食わぬ顔をして、「強い要望を受けたので止む無く」同掛を設置した、ということでしょう。(太田)

 慶長から貞享期(1596~1688)の武家伝奏は、幕府が候補者を選んで朝廷に奏請し、それを朝廷が任命するものであった。
 <それが、>・・・元禄期(1688~1704)以降は、朝廷側が候補者を選んで天皇の意向として幕府に伝え、幕府の同意を得たうえで任命するものへと変わった・・・。

⇒この転機となったものが何だったかにも、触れて欲しかったところです。↓
 「この転換は・・・1700年・・・に東山天皇が幕府に無断で武家伝奏である正親町公通を罷免した事件をきっかけにしたとする見方がある。将軍徳川綱吉の側近・柳沢吉保の縁戚であった正親町の任命に対する不満が朝廷内にあり、天皇が武家伝奏への人事権を主張してその罷免を強行した際には、正親町に不満を抱く関白や京都所司代もこれを止めることなく認めてしまい、幕府がこれを知った時には時遅しであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E5%A5%8F (太田)

 そのような任命方式も・・・1862<年>には一変する。
 12月16日、幕府は朝廷に関白以下の要職を任命するとき、天皇の意向を幕府に伝えることをやめ、朝廷が任命した事後報告だけを伝えるように変更することを願い出たのである。
 武家伝奏も例外ではなく、・・・武家伝奏就任時における血判誓紙の・・・12月5日<の>・・・慣例の廃止<に加えて、>・・・朝廷の独断で任命できるようになった。・・・
 <その前の1862年10月、>江戸城で天皇の文書を伝えた・・・勅使<の>・・・三条実美と姉小路公知・・・が宿泊する旅館を・・・一橋<慶喜>と松平<慶永>が・・・訪ねた。
 一橋と松平は、今日は肩書を捨てて私的に話し合うつもりだと告げた。
 そして両者は、「現状では攘夷を決定したところで、横浜をはじめ国内から外国人を追い払うことはできるものではない」と語った。
 これを聞いた三条と姉小路は、「攘夷を決定しても、即今攘夷ではない。攘夷の方針をよく検討し、準備したうえで行うべきだ」と答えた。
 意外な答えに一橋と松平は、「過激な議論を主張するという風聞とはまったく違う」・・・と驚いている。・・・

⇒慶喜は慶永に自分の(幕府を内部から崩壊させるという)本心を最後まで明かさなかったと私は見ているところ、こういう場でも、知っていてあえて慶永に同調した、という可能性もないわけではありませんが、私は、近衛忠煕は、秘密保全のため、慶喜とは、公式の場以外では、直接にはもちろん、人を介しての、或いは、手紙をやりとりする形での、接触さえ避け続けた、と想像しており、慶喜は、この時点で近衛忠煕を頭目とする五摂関家・・という認識は持っていたと思うけれど・・が、(早晩切り替えることは予期しつつも、)公武合体モードから攘夷倒幕モードへと、この時点までに切り替えたのかどうか、本当に知らなかったのではないでしょうか。(太田)

<1863年>正月23日には近衛忠煕が関白を辞職し、代わって鷹司輔煕が関白をつとめる。
 近衛の内覧はそのままであったが、その特権を用いる意欲はなかった。
 鷹司を関白職にという声は前年からあったが、天皇は朝廷のためにならないと渋った。
 それにもかかわらず関白職に就けたのは、・・・過激な・・・攘夷・・・運動に配慮したように思われる。

⇒なんということはない、五摂関家は一体なのですから、関白が替わっても実態は何一つ変わらないわけです。(太田)

 これに続いて27日には、近衛が信頼を寄せた正親町三条実愛と中山忠能が議奏を辞めた。
 「四奸二嬪」の際に「十奸」と目されたにもかかわらず、正親町三条と中山の受けた罪が軽すぎたからである。
 両者を失うことは幕府側にも痛手であった。
 正月26日付の青蓮院宮宛ての書翰で一橋慶喜は次のように語っている。
 正親町三条と中山の辞職は「朝威」が低下することにもなるから避けるべきである。
 もし必要なら京都守護職を両者の警護につけ、手向かう者は処罰すればよい。
 このような助言も功は奏さなかった。・・・

⇒先程、私が、慶喜について記したことを振り返ってください。(太田)

 前年にもまして攘夷を急ごうとする過激な雰囲気が広がっていた。・・・」(110~114、116、121~122)

(続く)