太田述正コラム#12666(2022.4.2)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その16)>(2022.6.25公開)

 「・・・<結局、>攘夷に穏健な両役が<過激な両役に交替>し、国事参政や国事寄人が設定される<(注22)>と、・・・公家の教育機関<であるはずの>・・・学習院の性格も変わってい<き、>・・・政治の場として利用されるようにな<った。>・・・

 (注22)「<1863>年2月13日・・・、朝廷に、国事を議論する場として新たに国事参政・寄人が設置された・・・。定員14名中13名に尊攘急進派が任命された。
 設置時のメンバーは以下の通り([]は禁門の政変で都落ちする七卿)
国事参政
(4名)参議橋本実麗・大蔵卿豊岡随資・[左近衛権少将東久世通禧]・右近衛権少将姉小路公知
国事寄人
(10名)権大納言正親町実徳・[権中納言三条西季知]・左近衛権中将滋野井実在・右近衛権中将東園基敬・左近衛権少将正親町公董・[修理権大夫壬生基修]・[侍従中山忠光]・[同四条隆謌]・[右馬頭錦小路頼徳]・[主水正沢宣嘉]
ただし
*<1863>年4月15日、参議橋本実麗辞職
*同年6月8日、侍従烏丸光徳を国事参政に任命
*同年7月18日、左近衛権少将橋本実梁を国事参政加勢に任命・・・
 国事参政・寄人は同年8月18日の禁門の政変によって廃止された。(同日、正親町実徳以外、全員が参朝・他行他人面会を禁じられた)」
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/iroha/mame-sansei-yoriudo.htm

攘夷の早期実行を望む諸藩士たちは、朝廷内の公家と手を組んで天皇を動かそうとする。
 一方で志を同じくする公家たちは、攘夷熱を背景に朝議を掌握しようとした。・・・
 2月11日・・・の夜、一橋と松平の旅館に勅使が派遣された。
 天皇の命令を受けた議奏・・・三条実美たちが攘夷期限を求めると、一橋は将軍の京都滞在期間もわからないため、即答はできないと突っぱねた。
 だが、将軍の滞京期間を10日と決めてはどうかと応酬され、4月中旬頃との回答を余儀なくされた。
 これにより将軍家茂の状況は形式的なものとなった。
 「剛情公」と呼ばれた一橋も、天皇の命令となるとタジタジである。
 朝議に影響力を与えるようになった尊攘派の公家たちは、穏健派の公家が後退したこともあり、天下を取ったような気分ではなかったか。

⇒「幕府側が10年内の鎖国復帰(「蛮夷拒絶」)を約束することで、・・・1860年・・・8月に孝明天皇は・・・将軍徳川家茂と天皇の妹である皇女和宮・・・の結婚を承認した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%98%E5%A4%B7%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E3%81%AE%E5%8B%85%E5%91%BD
という背景の下、一体化した五摂関家の頭目たる近衛忠煕が、(薩摩藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達との擦り合わせの上で、)攘夷決行期限の具体化を、攘夷を叫ぶ志士達と朝廷内の跳ね上がり下級公家達を焚きつけ、幕府への圧力として利用しつつ、図ったわけです。
 「天皇の命令となるとタジタジである」どころではなく、いつかいつか、と待ちわびていた慶喜は、内心欣喜雀躍しつつも仏頂面を無理やり作るのはさぞかし大変だったことでしょうね。(太田)

 幕府が攘夷実行期限を明確にしないことに尊攘派は不満であった。
 そこで・・・1863<年>2月に長州藩世子毛利元徳は、・・・石清水八幡宮<等>へ<の>行幸を建議した。
 
⇒タイミングが良過ぎるのは当然であり、忠煕一味が糸を引いてそうさせているのです。(太田)

 <そんなところへ>徳川家茂が上京した。
 将軍が京都に入るのは、三代将軍家光から229年ぶりのことであった。

⇒「尊皇論で貫かれて<いる>」『大日本史』を幕府として受納した1720年以降も将軍徳川吉宗は、大政委任を受けている最重要な臣下でありながら、天皇への拝謁(上京)を怠り続け、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
また、幕府が朝廷に献上した1810年以降でさえ、将軍徳川家斉がそれを怠り続けた
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2-91827
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
のですから、1863年にもなって家茂が上京したとて、もはや手遅れであり、既に近衛忠煕らは、幕府にそのナンバーツーとして送り込んだ「同志」慶喜と事実上の連携をとりながら、着々と倒幕・維新に向けて駒を進めていたわけです。(太田)

 3月7日に参内した家茂には、将軍として攘夷を委任することと、国事について朝廷から直接諸藩に命じることがあるという内容の天皇の文書が下された。・・・
 賀茂両社と石清水八幡宮への行幸が実施された間には、幕府が拒んでいた「御親兵」の設置も実現した。・・・
 一橋慶喜や松平慶永は反対し、とくに京都守護職松平容保は受け入れられないと激怒している。
 しかし、3月14日には朝廷の独断で10万石以上の大名に対し、一万石につき一人を禁裏守衛として差し出すよう命じた。
 そして4月3日には議奏三条実美が京都御守衛御用掛を兼務することとなる。・・・
 <結局、>幕府は、17日に10万石以上の大名に交代で京都守衛にあたるよう命じた。」(124、126~128、130~132)

⇒形の上だけ幕府を通すことを朝廷に認めさせることで、幕府はかろうじて体面を保った、ということでしょう。(太田)

(続く)