太田述正コラム#12694(2022.4.16)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その30)>(2022.7.9公開)

 「議奏正親町三条実愛は、これを18日に薩摩藩<(注47)>士大久保利通と鳥取藩士安達清風(せいふう)(清一郎)<(注48)>から聞かされ、「患難」が切迫したと慨嘆している。

 (注47)「島津久光<は>、自藩の高崎正風<(前出)>を担当者として敵である会津藩と・・・1863年<8月13日に>・・・薩会同盟<を>・・・結んだ・・・。5日後に行なわれる・・・長州藩の追い落としのため<の>・・・政治クーデター(八月十八日の政変)を成立させた・・・密約である。 会津藩の窓口は会津藩公用方・秋月悌次郎。」
https://bakumatsu.org/events/view/394
 秋月悌次郎(1824~1900年)は、「下総国発祥千葉氏の末裔である会津藩士・丸山胤道(150石)の次男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校・日新館に学び、南摩綱紀とともに藩内でも秀才として知られた。天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩・長州など諸国を渡る。
 藩主・松平容保の側近として仕え、・・・1862年・・・に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。薩摩藩士・高崎左太郎らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ宮中クーデターである八月十八日の政変を起こし、藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。
 後に佐幕派の反対を受け、・・・1865年・・・には左遷されて会津藩外交の表舞台を去ることになり、蝦夷地代官となる。その後は再び召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みるが失敗。
 戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し、戦場で直接戦う機会は無かった。
 降伏の際には手代木直右衛門とともに会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍首脳へ降伏を申し出た。同時に小川亮、山川健次郎の2人の優秀な青年を、面識ある長州藩士の奥平謙輔に預けた。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり、猪苗代において謹慎し、明治元年(1868年)には会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免される。同年、新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%82%8C%E6%AC%A1%E9%83%8E
 (注48)1835~1884年。「昌平黌にはいり,水戸で会沢正志斎にまなぶ。神発流砲術教授,京都留守居をつとめ,尊攘運動に参加。維新後,岡山県の日本原開墾につくした。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B8%85%E9%A2%A8-1050129

⇒英公使→幕閣→慶喜|→(部下)松平容保→(部下)秋月悌次郎→(盟友)高崎正風/利通-|
        |→(実弟)池田慶徳→(部下)安達清風→正親町三条実愛←——–|
こういうルート↑で実愛に情報が伝わったと想像されます。
 ここでも、先回りして記しておきますが、この1863年8月13日の薩会同盟も、中岡慎太郎の仲介による武力討幕による回天維新のための1867年5月21日の薩土同盟(薩土密約=薩土倒幕の密約)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%9C%9F%E5%AF%86%E7%B4%84
も、そして、坂本龍馬の仲介による大政奉還による公議政体のための1867年6月22日の薩土同盟(薩土盟約=薩土提携)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%9C%9F%E7%9B%9F%E7%B4%84
も、全て、そのシナリオを描いたのは、近衛忠煕/薩摩藩を牛耳っていた島津斉彬コンセンサス信奉者達、だった、と、私は見ているところです。(太田)

 20日の夕方から小御所で朝議が開かれ<たが、>・・・この日の議題は兵庫開港問題ではなく、長州再征の可否である。
 <内大臣の>近衛<忠房>は、それについては諸侯を集めて意見を聞くべきであると主張した。
 だが<関白の>二条<斉敬>は、長州藩は朝敵であるため、その必要はないと反論する。
 両者の議論に決着をつけたのが、一会桑であった。
 長州再征は幕府側で決めたことであり、いまさら諸侯の意見を聞く必要はないという。・・・
 <結局、>長州再征が内決した。
 この結果を知った大久保利通は、21日に中川宮、二条などを訪れ、長州再征に反対している。
 しかし、当日の朝議では、二条、一橋、容保が薩摩藩の主張などは聞き入れるべきではないと主張し、それを天皇も認めた。・・・」(179~180)

⇒近衛忠煕/大久保利通らが慶喜と共に、(忠煕の分身である)近衛忠房と(忠煕本人に等しい)大久保利通に穏健派を演じさせ、(忠煕と一体である)二条斉敬と(忠煕と事実上一体である)慶喜に強硬派を演じさせた上で、朝議で後者に軍配を上げる、というシナリオを描き、生来的強硬派の容保・定敬兄弟・・この兄弟は強硬派が孝明天皇の真意に忠実であると、それだけは正しく判断していた!・・を、慶喜の下に、(慶喜が「倒幕」を行う)最後の瞬間まで繋ぎ留めておく、という謀略のダメ押しの布石を打った、というのが私の受け止め方です。(太田)

(続く)