太田述正コラム#12602(2022.4.20)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その34)>(2022.7.13公開)

 「8月・・・30日・・・22人が参内し、御学問所で次の意見書を提出した。
 一、朝廷主導で諸藩主を召集、二、<1862・3年>・<1864年>に処分された公家の赦免、三、朝廷改革、四、長州解兵。・・・
 正親町三条<と>・・・大原重徳・・・だけが・・・<これを>進奏した<が、>・・・天皇の機嫌は悪かった。
 その後、天皇は・・・いずれの建白内容も熟慮するとの結論を伝えた。・・・
 一橋慶喜は将軍職には就任しないと宣言したが、・・・1866<年>8月20日に徳川家を相続した。
 将軍不在という事態を乗り切るため、8月29日に関白二条斉敬をはじめ国事御用掛らが参内し、朝命によって諸侯を京都に召喚することを決定した。
 そして9月8日には、24藩に上京の朝命が下<った>。・・・
 <しかし、>実際に朝命に応じて上京した諸侯は7人しかいなかった。・・・

⇒幕府の権威も地に堕ちていたけれど、朝廷の権威も同じであることが明らかになったことから、、将軍に就任しないまま徳川本家の立ち枯れ策を追求すると日本が無政府状態に陥ってしまう、と判断し、慶喜は、将軍職を引き受け、悪役と化して久しかったところの、幕府、を復活させることによって、その再興幕府に対する対抗軸としての朝廷の権威を全国の反幕勢力の旗印として最低限求められるレベルまで再浮上させようとした、というのが私の見立てです。(太田)

 <1866>年10月27日には天皇の考えによって、8月30日の列参運動を行った22人の公家と、彼らに協力した山階宮晃親王と正親町三条に処分が下った。
 22人の中心人物である大原重徳と中御門経之は閉門<(注58)>、それ以外は差控<(注59)>を命じられた。

 (注58)「江戸時代の刑罰の一つで、武士、僧侶などに科せられた。逼塞より重く、門扉、窓を閉ざし、昼夜ともに出入りを許さなかった。ただし蟄居より軽い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%89%E9%96%80
 (注59)「勤仕より離れ、自家に引きこもって謹慎する。門を閉ざすが、潜門(くぐりもん)から目だたないように出入りはできた。比較的軽い刑罰ないし懲戒処分として、職務上の失策をとがめたり、あるいは親族・家臣の犯罪に縁坐・連坐せしめる場合などに用いた。自発的にも行われ、親族中一定範囲の者または家臣が処罰を受けると、その刑種によっては差控伺(うかがい)を上司に提出し、慎んで指示を待った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E6%8E%A7

 山階宮は国事御用掛を罷免されたうえで蟄居<(注60)>、議奏を辞めて朝議から外れていた正親町三条は遠慮閉門<(注61)>となった・・・。

 (注60)「命じられて行う場合と、命じられる前などに自発的に自宅で謹慎する場合もあった。江戸時代には蟄居・蟄居隠居・永蟄居(解除なし)などに分けられていた。また、減封などが付加される場合もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%84%E5%B1%85
 (注61)逼塞は、「門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。閉門より軽く、50日間と30日間の2種類があった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%BC%E5%A1%9E
ところ、遠慮閉門は調べがつかなかった。
 遠慮のことではないかと思われるが、遠慮は、「居宅での蟄居(ちっきょ)を命ぜられるもので、門は閉じなければならないが、くぐり戸は引き寄せておけばよく、夜中の目立たない時の出入は許されたhttps://kotobank.jp/word/%E9%81%A0%E6%85%AE-38418
であるところ、逼塞との違いが、これまた分からなかった。」

 1866<年>12月5日、・・・慶喜の将軍宣下が行われた。・・・
 一方で天皇の体調が心配されるようになる。
 御所に詰める医師たちは、天皇に12月11日の内侍所(ないしどころ)臨時御楽祭<(注62)>を休むように進言した。

 (注62)「御神楽<は、>・・・神楽の美称で,皇室の祭儀として宮中で行われる神事芸能。民間神事の神楽〈かぐら〉〈おかぐら〉〈里神楽〉などと区別してとくに〈みかぐら〉と称する。 御神楽の起源は,天岩戸の前での天鈿女(あめのうずめ)命の舞であると伝えられるが,これに儀式としての作法が定まり,神楽譜が選定されるのは平安時代に入ってからである。現行御神楽の原形である〈内侍所(ないしどころ)の御神楽〉は,《江家次第》《公事根源》等によれば,一条天皇の時代(986‐1011)に始まり,最初は隔年,白河天皇の承保年間(1074‐77)からは毎年行われるようになったという。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B3%A2%E6%89%80%E5%BE%A1%E7%A5%9E%E6%A5%BD-462042

 天皇は体調不良を押して御楽祭に臨んだが、その後に風邪気味となり、その翌日から<天然痘によるものと思われる>高熱が出た。・・・
 <その後、一旦持ち直したが、激しい下痢、嘔吐の症状が出、12月>25日に・・・天皇は、・・・息を引き取った。」(194~195、198~200)

⇒慶喜の将軍就任の直後に孝明天皇が急逝し、新しい天皇の下で、朝廷の権威が再浮上することになったわけですが、とにかく、タイミングが絶妙過ぎであり、私が、五摂関家を黒幕とし、正妃である九条夙子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E
を事実上の下手人とするところの、毒殺説、を唱えているゆえんです。(太田)

(続く)