太田述正コラム#12704(2022.4.21)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その35)>(2022.7.14公開)

 「・・・孝明天皇の死<と、それに伴う>・・・<新天皇の>践祚の儀・・・は、彼によって処分された公家たちが朝廷に復帰する機会となった。・・・
 1867<年>・・・正月・・・12日の朝議では前関白近衛忠煕と内大臣近衛忠房が、・・・1863<年>の幽閉者全員の赦免<(注63)>と、・・・1864<年>の幽閉者は選んで赦免にすることを提案した。

 (注63)「日本は、中国の刑法や行政法を基に大宝律令を作ったため、中国の法律の中にあった恩赦も同時に組み込まれたというわけです。
 当時の中国における恩赦の意味合いは
● 新しい王朝の権威を国民に見せ支持率を上げる
● 新王朝に伴う法律の変更により、過去の罪を一旦リセットする
主にこの二つの意味合いが強かったといわれていますが、日本における恩赦の意味は少し独特です。
 日本では、新天皇のご即位や皇太子が立てられたタイミングで恩赦を行うことで、天皇による統治のありがたさを国民に広めたり、災害や飢餓などの不幸時には”穢けがれ”を払い、救済の意味を持たせるために恩赦を行うなど、日本独自の政治として発達してきた歴史があります。」
https://wa-gokoro.jp/event/Nationalaffairs/506/

 15日には・・・<新天皇の>元服の儀が挙行され、大赦令が公布された。・・・
 <5摂関家の人々の中で>九条尚忠・・・だけが完全復帰<にならなかった>のは、彼の娘である准后九条夙子(あさこ)から赦免嘆願があったものの、息子の九条道孝が父と不仲だったことによる。
 九条家に戻ると混乱が絶えないと感じた道孝は、近衛忠房と右大臣徳大寺公純に・・・重慎は解<く>が・・・参内と他人面会は許さな<いよう>・・・申し込んだ<ため>である。
 幕府側を支持してきた尚忠と、長州藩寛大処分運動に参加する道孝とでは、水と油であったといえる。

⇒「<1867年>12月8日には還俗を許され<、>明治元年(1868年)9月18日、准后宣下<がなされた>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0
というのですから、五摂関系の人々中では、九条尚忠だけが近衛忠煕によって形だけの貧乏籤を引かされた、ということでしょう。
 そもそも、九条父子のそれぞれの政治的スタンスは、(道孝の場合、そのスタンスの変更も含め、)近衛忠煕の指示に従った擬態に過ぎない、というのが私の見解であることはご記憶のことと思います。
 なお、繰り返しておきますが、道孝の子の節子が、あの貞明皇后です。(太田)

 <全面的赦免がなされなかったことに対する>公家たちの不満は無視できなかったと見える。
 ・・・1867<年>正月・・・25日には二度目の赦免が行われた。
 だが、・・・「四奸二嬪」排斥運動で処分を受けた・・・岩倉具視、・・・ら、・・・七卿<落ちの>・・・三条実美ら・・・、・・・列参運動で処分された24人は許されなかった。
 前二者は復帰が警戒され、後者は処分から月日が経っていないことが赦免を難しくしていたと思われる。
 彼らの赦免が進捗しないなか、2月27日に九条尚忠の参朝・他行・他人面会が許される。・・・

⇒いやはや、九条尚忠は、一年弱どころか、わずか一ヵ月ちょっとの辛抱だったわけですね。(太田)

 <1867>年3月29日、・・・列参運動を行った<全員>・・・と、正親町三条実愛と山階宮晃親王が赦免された。
 また、・・・岩倉<ら4人>の入京が許可された。
 <岩倉>たちは完全な赦免ではなく、住居は洛外のままとし、月に一度だけ入京してよいというものである。・・・
 <さて、>将軍徳川慶喜は、・・・1867<年>3月5日に朝廷に兵庫開港を要請した。・・・
 朝廷は・・・3月19日に不許可を回答するが、22日に慶喜は再度要請している。・・・
 そして、慶喜は大坂に向かうと、28日に大坂城でイギリス公使パークス、フランス公使ロッシュらを招き、兵庫開港を確約する。
 老中板倉勝静は、外国の新聞に開港確約の記事を載せることも許可している。
 幕府は兵庫開港に向けて行動し、後日に天皇が許可せざるを得ない状況をつくろうとした。
 <しかし、>29日に朝廷は・・・開港不許可を回答している。・・・
 このように兵庫開港をめぐって朝幕間でもめるなか、4月15日に幕府はイギリス公使パークス一行の伏見から大津への通行を許可した。」(204~205、207~209)

⇒さっそく、慶喜は、朝廷との軋轢の種を一つならず二つもでっちあげ、全国の反幕勢力の火に油を注ぐ行動をとり始めた、ということです。(太田)

(続く)