太田述正コラム#12724(2022.5.1)
<永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む(その3)>(2022.7.24公開)

 「・・・天皇と皇室をめぐる領域においては、原の暗殺死の少し前から、大きな変化が水面下で生じていた。
 一つは、元老で枢密院議長の山県が事実上の失脚に追い込まれたことである。・・・宮中某重大事件・・・。・・・
 また、山県に協力して婚約解消に努力していた宮内大臣中村雄次郎<(注4)>も辞任し、その後任に松方内大臣が推薦した牧野伸顕が就任した(1921年2月)。

 (注4)1852~1928年。「大庄屋・中村一貫の二男として・・・伊勢国一志郡波瀬村(現・三重県津市)・・・で生まれた。生家は素封家だったが幼年期には没落していた。
 陸軍大学校教授、参謀本部陸軍部第一局第一課長、砲兵第一方面提理、陸軍省軍務局砲兵事務官長、陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長等を歴任。
 1907年に日清、日露戦争の功により男爵の爵位を賜る。又、貴族院議員、八幡製鉄所長官、南満州鉄道総裁、宮内大臣、枢密顧問官等も務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%84%E6%AC%A1%E9%83%8E

 牧野は中村と違って、予定どおり皇太子の婚約を遂行させるつもりであった。
 宮中某重大事件を機に、宮中では松方・牧野の薩摩系勢力が主導権を握るようになったが、その松方・牧野が水面下で進めていたのが、摂政の設置であった。

⇒宮中某重大事件についての私の見方は既に説明している(コラム#12651)のでここでは繰り返しませんが、山縣は私見では隠れ薩摩閥ですし、また、中村も牧野も、前者は帝国陸軍関係者として、また、後者は秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者として、それぞれ山縣と懇意の人物だった、とも見ています。
 牧野をこの時内大臣に選んだのは、公望の希望でもあり、牧野を実質的な公望の(首班指名の任の)後任とする含みであった、とも。
 恐らくは、何もなくても、そう遠くない将来、牧野を宮中に送り込むつもりだったのではないでしょうか。(太田)

1921年・・・11月4日に、・・・原首相の暗殺死という突発的事件が起こった<。>・・・
 <その後任としての>高橋是清奏薦の過程には、注目すべき点がある。
 枢密院副議長の・・・清浦圭吾<(注5)>・・・と宮内大臣の牧野が松方の個人的な相談相手として、後継首相候補の選考に実質的に関与した点である。

 (注5)1850~1942年。「肥後国山鹿郡上御宇田村(現:山鹿市鹿本町来民)の明照寺(浄土真宗本願寺派)住職・大久保了思の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は・・・1865年・・・から、豊後国日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学んだ。この時に日田県令を勤めていた松方正義、野村盛秀の知遇を得ている。1872年(明治5年)に上京し、埼玉県県令となっていた野村宅を訪問した際に、埼玉県の教育に力を貸すよう求められ、11月27日には埼玉県第21区小学第三校(通称は「風渡野(ふっとの)学校」。現・さいたま市立七里小学校)大教授(校長)申付として出仕した。1873年(明治6年)11月には、埼玉県権少属となり、1874年(明治7年)には権中属、1876年(明治9年)には中属となっている。
 1876年(明治9年)8月11日には司法省に転じ、補司法省九等出仕として出仕した。これは岸良兼養<(下で紹介)>の弟であり、清浦の同僚であった岸良俊介の推薦によるものであったとみられている。検事、太政官や内務省の小書記官、参事院議官補などを歴任するが、この間に、治罪法(今日の刑事訴訟法)の制定に関与した。・・・
 こうした活躍が、当時内務卿であった山縣有朋の目にとまり、1884年(明治17年)2月25日、全国の警察を統括する内務省警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任期間は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の内務大臣は、5年余りが山縣であった。・・・
 1891年(明治24年)4月9日、貴族院議員に勅任され、・・・警保局長を辞職した。間もなく警保局長時代から調整されていた欧州への視察に赴き、翌1892年(明治25年)4月に帰国した。貴族院では1906年(明治39年)まで研究会を率いて親山縣・反政党勢力の牙城にするとともに、伯爵以下の議員の互選に際しても選挙運動で活躍して研究会を第1会派に育て上げた。
 1892年(明治25年)、第2次伊藤内閣の下で司法次官に任ぜられた。この内閣では山縣が司法大臣となっていたが、山縣は司法に全く知識がなかった。このため前司法大臣の山田顕義に相談したところ、清浦を推薦され、山縣も以前から清浦を知っていたため、これに応じたからであったという。・・・
 1896年(明治29年)9月18日、第2次松方内閣が成立すると清浦は司法大臣に任ぜられた。1898年(明治31年)の第3次伊藤内閣では入閣しなかったものの、同年11月成立の第2次山縣内閣、1901年(明治34年)成立の第1次桂内閣でも司法大臣となり、第1次桂内閣では農商務大臣を兼任(後に専任)、内務大臣を兼任している。清浦の司法大臣在任は合計で5年6ヶ月に及ぶ。1902年(明治35年)には勲功により男爵に叙爵された。・・・
 1906年(明治39年)4月13日、枢密顧問官となり、同年5月17日、貴族院議員を辞職した。・・・
 1923年(大正12年)、第2次山本内閣が虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、組閣の大命は再び清浦の下に降下した<が、>・・・5月15日に清浦内閣は総辞職した。5か月間の短命内閣であった。清浦は憲政の常道に従い、第一党となった憲政会総裁加藤高明を推挙したいという意向を西園寺に伝えたが、西園寺は拒絶し、元老としての西園寺が改めて加藤を奏薦した。
 その後、清浦は重臣に列し、・・・また重臣会議に参加し、五・一五事件の際には西園寺と同様に挙国一致内閣の成立を推している。また1931年(昭和6年)満州事変、1934年(昭和9年)の齋藤内閣崩壊の際には重臣として協議に参加している。1941年(昭和16年)の重臣会議で東條英機の後継首相擁立を承認した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E5%A5%8E%E5%90%BE
 岸良兼養(1837~1883年)は、「薩摩藩士・・・の長男として生まれる。島津久光の小姓として、久光、島津忠義父子と精忠組との連絡役を務めた。・・・初代検事長(現在の検事総長に相当)・・・大審院長・・・司法少輔・・・元老院議官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E8%89%AF%E5%85%BC%E9%A4%8A

⇒山縣が、藩閥とは無関係に、能力ある人間を見出し活躍させた人物であったことが、清浦の事績からよく分かりますね。
 同じく、清浦の事績から、山縣と西園寺が連携関係にあったことも窺えます。(太田)

 元老の個人的相談相手という資格ではあるが、枢密院副議長と宮内大臣が後継首相候補の選考にかかわるのは、今までにないことだった。
 原の暗殺という予想外の事件に、老齢の松方が自分の相談相手および小田原に引き籠ったままの山県との連絡役に、信頼できる人物を求めたとしても無理はない<。>」(14~18)

⇒清浦はもちろんですが、牧野もまた、山縣と懇意であったことがこのくだりからも裏付けられます。(太田) 

(続く)