太田述正コラム#1650(2007.2.6)
<ストーンヘンジ(続)>

 (本篇は、コラム#1643をめぐって太田掲示板(http://sol.la.coocan.jp/wforum/wforum.cgi)上で一読者と私の間で行われた対話に末尾の部分を付け加えたものです。)

<海驢>
 太田さんとは違った切り口で、興味深いコラムでした。
 しかしながら、以下の部分については訂正をお願いしたいと思います。日本の優越を誇りたいわけではありませんが、不当に貶めることになるのも困りますので。

>王家の歴史こそ日本よりもちょっと短いけれど

 現ウィンザー朝の成立はA.D.1917年、ハノーヴァー朝まで遡っても1714年、イングランド・ウェールズ・スコットランドが統一されたグレートブリテン王国の成立でさえ1707年ですから、神武天皇の橿原即位がB.C.660年(別の推定でA.D.57年や181年)、一般的に実在したとされている応神天皇の即位がA.D.270年とされる日本の皇室と比較して、「ちょっと短い」ではなく、「短い」もしくは「かなり短い」の方が適切だと思われます。
※資料:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

>英国の民族史は日本よりもはるかに長く

 「三内丸山遺跡」はご存知ですか?
 B.C.3500年??2000年(約5500年前??4000年前)の大規模集落で、32m×10mの大型住居跡や「環状列石」もあるそうです。
 また、一般的に原始時代からの転換期と見なされる新石器時代に入ったのは、英国がB.C.5000??4000年頃、一方の日本ではB.C.11000??9000年頃ですし、世界最古の土器は日本の縄文土器(約16000年前のもの)ですから、英国の民族史は「日本よりもはるかに長く」ではなく、「日本よりもはるかに短い」の方が適切だと思われます。
※資料:
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/index.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

<太田>
1 王家の歴史について
 英国の王室はアングロサクソン7王国の一つのWessexの王家に遡るのですが、Wessexは6世紀に建国されたと伝えられています。ただし、実在が確実に証明されるのは640年です。イギリス王国が成立するのは9世紀です。おっしゃる通り、英国が成立するのは、1707年ですが、私の申し上げているのは英国の王家の古さであり、王家として6世紀ないし7世紀に遡りうるということから、日本の王家(天皇家)の古さに十分比肩しうると考えます。
 (ウィキペディアのWessexとList ofEnglish monarchs を参照した。)

2 日本の民族史について
 私は、日本の民族史は紀元前2300年頃の弥生時代から始まると考えています。弥生人が新しい文化を携えて大量に日本に渡来し、縄文人及び縄文文化と部分的に混淆しつつも、縄文文化を駆逐する形で弥生文化が生まれたからです(
http://www.bund.org/opinion/20040915-2.htm)。
 これに対し、イギリス(ほぼ英国と言ってもよい)は、ごく最近までブリトン人の純血種に近かったことが分かっています(コラム#1349)。
 そのブリトン人は、紀元前2,500年前後にストーンヘンジをつくった人々です。
 こういう意味で、私は、英国の民族史の方が日本よりはるかに長い、と申し上げているのです。

<海驢>
> 1 王家の歴史について
>  英国の王室はアングロサクソン7王国の一つのWessexの王家に遡るのですが、Wessexは6世紀に建国されたと伝えられています。
  (中略)
> 私の申し上げているのは英国の王家の古さであり、王家として6世紀ないし7世紀に遡りうるということから、日本の王家(天皇家)の古さに十分比肩しうると考えます。

 なるほど、Wessex王国の歴史は6世紀まで遡れそうですので、現在の英国王室(ウィンザー朝)に繋がるものならば確かに天皇家に比肩しうるという気もいたします。
 ただ、Wikiの「イギリス君主一覧」他で追いかけてみると、Wessex王家は1066年のノルマン・コンクエストで切れてしまい、以降の王家はすべてノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム征服王)の血統を受け継いだとのことでした。
※出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A01%E4%B8%96_%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29
 一応、「アルフレッド大王の子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚してイングランド王家と縁戚を得るに至った。」との記述がありますが、これをもってWessex王家が存続したと見なすのは難しいように思えます。

> 2 日本の民族史について
>  私は、日本の民族史は紀元前2300年頃の弥生時代から始まると考えています。弥生人が新しい文化を携えて大量に日本に渡来し、縄文人及び縄文文化と部分的に混淆し、縄文文化を駆逐する形で弥生文化が生まれたからです(
http://www.bund.org/opinion/20040915-2.htm)。

 これについては、賛同しかねます。
 リンク先の荒氏は、イデオロギー(愛国教育批判)を主張したいために、縄文・弥生を恣意的に利用しているように思えます。
「日本人の祖先は、そもそも外からやってきたのです」と言うなら、すべての人類は南アフリカに共通の祖先を持つはずなので、「外からやってきた」のは全ての民族に当てはまります。それをことさら日本批判に使うとは、おかしな言説だと思います。

 Gm遺伝子をマーカーとした研究では、日本人は「バイカル湖畔を源とする北方系モンゴロイドであり、北海道から沖縄に至るまで、ことGm遺伝子に関する限り、驚くほど等質である」とのことです。
 これは外見が違って見えるアイヌ・八重山の人も同様であり、一方、特徴が似ていると荒氏が言っている朝鮮半島や中国大陸の民族とは異なっています。つまり、縄文人が渡来人(弥生人)に取って代わられたわけではないと思います。
※参考:http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/gmdna.html

 また、福岡・板付遺跡や山口・土井ヶ浜遺跡などの発掘調査から、渡来してきた人の数は、多く見積もっても数百年で数千人。一年にならすと、せいぜい数十人程度に過ぎず、二家族とか三家族とか、ごく少数の人々が、長い期間の間に、ぱらぱらとやってきたと言うのが実態ではないか、と指摘されています(上記HPの他頁)。
 さらに、縄文系の土器が、西日本の遺跡で出土していたり、同じ地方で争いもなく混交していった形跡が見られることから、渡来文化=弥生文化ではなく、縄文文化+渡来文化=弥生文化、というのが事実であろうと述べられています(上記HPの他頁)。

 ならば、「縄文文化が駆逐された」のではなく、移民が定着して時間をかけて融合していったのであり、「日本の民族史が弥生時代から」とは言えないと思います。

 以上の点から、日本の民族史の方が英国よりはるかに長い、という結論になると私は考えます。

<太田>
1 王家の歴史について
 (デーン人の王朝とウィリアム征服王、そして彼の敵であったハロルド2世以外の)イギリスないしグレードブリテンないし連合王国の国王は、すべてアルフレッド大王の子孫であるとAlfred the Greatについてのウィキペディア(英語版)にはありますし、エリザベス2世に至るすべてのイギリス国王はウィリアム征服王とアルフレッド大王の子孫だとWilliam 1についてのウィキペディア(英語版)にはあります。
 なお、ウィリアムが結婚したマティルダ(Matilda)は、アルフレッド大王の娘がフランドル伯爵ボードワン(Baldwin)1世に嫁いだことに始まる、アルフレッドの7代目の子孫(フランドル伯爵ボードワン5世の子供)です(典拠省略)が、彼女は、ノルマンディー公爵当時のウィリアムからの求婚を一旦は、「アルフレッド大王の子孫の私が、ノルマンディー公爵家の庶子などと結婚するわけにはいかない」と断った気位の高い女性であったとされています(Matilda_of_Flandersについてのウィキペディア(英語版))。
 ですから、英語圏においては、イギリス国王家は、アルフレッド大王、すなわちウェセックス国王家まで遡りうる、ということが通説となっていることが分かります。
 ちなみに、漢は帝位を簒奪した王莽(漢の皇室と血縁関係なし)によって一旦断絶し、新となります(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9C%AB%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E5%88%9D
)が、こんなケースでも、新を倒して帝位に復帰した劉氏の皇室としての血筋が漢(前漢)の創始者である劉邦まで遡りうることに誰も異存はないでしょう。また、唐は二代目の皇帝の皇后であった則天武后(唐の皇室と血縁関係なし)によって一旦簒奪されて武周となります(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
)が、唐が復活するところ、こんなケースでも、帝室である李氏の皇室としての血筋が、唐の創始者である李淵まで遡りうることに誰も異存はないでしょう。

<海驢>
 ご返信ありがとうございます。

>1 王家の歴史について
> ・・・イギリスないしグレードブリテンないし連合王国の国王は、すべてアルフレッド大王の子孫であるとAlfred the Greatについてのウィキペディア(英語版)にはあります・・・
> ですから、英語圏においては、イギリス国王家は、アルフレッド大王、すなわちウェセックス国王家まで遡りうる、ということが通説となっていることが分かります。

 なるほど、そのように解釈するならばWessex王家まで遡れますね。
 つい日本の皇室や氏姓制度と同様の「父系相続」を考えてしまい、母系・父系を何度も繰り返して曖昧になっても、血統が維持されると考える欧米流の解釈ができていませんでした。
 ただ、それは日本人の相続の考え方とは少し違うように思えます。

> ちなみに、漢は帝位を簒奪した王莽(漢の皇室と血縁関係なし)によって一旦断絶し、・・・新を倒して帝位に復帰した劉氏の皇室としての血筋が漢(前漢)の創始者である劉邦まで遡りうることに誰も異存はないでしょう・・・

 後漢・光武帝(劉秀)や唐・中宗(李顕)のケースは、双方とも父系相続という同じルールに則って、それぞれ高祖(劉邦・李淵)まで遡れます(系図もある)ので、一旦、廃位されたと雖も同じ家柄ということは納得できます。
 英国王家の場合は、同じルールではない(父系・母系が混交)相続であり、かつノルマン・コンクエストはマティルダではなく、ギヨーム(ウィリアム)が行って、ウィリアム1世として即位したのですから、違う話のように感じます。 
 この件、英国人としては、王室がノルマン系「フランス人」ということに必ずしも満足できないため、無理を承知でWessex王家・アルフレッド大王を持ち出しているような気がしました。

<太田>
 続けます。

2 日本の民族史について

 コラム#で「1643ストーンヘンジをつくった人々が、ブリトン人のブリテン島来住以前にこの島に住んでいた正体不明の原住民ということになっていたところ、ブリトン人だということが分かった」と書いたのは、若干不正確であり、「ストーンヘンジをつくった人々が、ケルト系のブリトン人のブリテン島来住以前にこの島に住んでいた正体不明の原住民ということになっていたところ、ブリトン人はケルト系ではなく、「正体不明の原住民」こそブリトン人であったことが分かった」と書くべきでした。訂正させていただきます。
 補足しましょう。
  かなり以前に(コラム#379で)申し上げたように、約1万年前にブリテン島に来住したブリトン人は、約3,000年前にドーバー海峡のすぐ向こう側のケルト人の文化を取り入れてストーンヘンジをつくったところの自分達の固有文化からケルト文化に乗り換えます。
 また、約1,500年前には、今度は、北ドイツからデンマークあたりのアングロサクソン人(ゲルマン人たるアングル人、サクソン人、及びジュート人)の文化を取り入れてケルト文化からアングロサクソン文化に乗り換えます。
 ブリテン島に約3,000年前に来住してきたケルト人も約1,500年前に来住してきたアングロサクソン人もごく少数であり、この間、ブリトン人は、ほぼ純血種であり続けたことが2004年に遺伝子学的に判明したのです。
 そしてブリトン人、すなわちイギリス人の純血種的状態は、大英帝国が形成され、植民地の原住民がブリテン島に大量に来住するようになった第二次世界大戦後まで維持されたのです。
 これに対し、日本人の現在の構成は、縄文人(原日本人・アイヌ人・琉球人)系が3割、弥生人系が5割、それ以外が2割であり(
http://www.kumanolife.com/History/dna.html
。この典拠はコラム#1635(未公開)で引用したことがある)、遺伝子学的には、縄文文化が弥生文化に切り替わった約4,300年前頃をめがけて弥生人が、稲作文化を携えて大陸から日本列島に来住したことによって、日本列島の住民の人種構成は激変したと考えられるのです。
 以上から、遺伝子学的に見て、英国の民族史の方が日本よりはるかに長い、と申し上げた次第です。