太田述正コラム#12776(2022.5.27)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その15)>(2022.8.19公開)

 「・・・政友会の田中義一内閣が昭和4年<(1929年)>7月2日に総辞職すると、憲政の常道により、同日、民政党の浜口雄幸<(注18)>内閣(~昭和6年4月13日)が発足。・・・

 (注18)1870~1931年。、「土佐国長岡郡五台山唐谷(現高知市)の林業を営む・・・家に・・・生まれる。・・・第三高等中学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学法科政治学科(後の東京帝国大学、現:東京大学)を3番の好成績で卒業。・・・大蔵省に入り、専売局長官、逓信次官、大蔵次官などを務め、1915年(大正4年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。同志会が憲政会に改組された後は若槻礼次郎、安達謙蔵と共に3幹部として加藤高明を支えた。加藤高明内閣の大蔵大臣、第1次若槻内閣の内務大臣などを務める。若槻内閣が総辞職した後に憲政会と憲政本党が合併し立憲民政党が結成されると初代総裁に就任した。
 立憲民政党総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任・・・。・・・明治生まれでは初の内閣総理大臣である。・・・
 <そして、>井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して金解禁や緊縮政策を断行し、また・・・外交政策では加藤高明内閣でも外務大臣を務めた幣原喜重郎を起用し幣原外交と呼ばれる対<支那>の関係改善及び<米国>、<英国>を重視する協調外交を推進し・・・野党・立憲政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。・・・
 当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において・・・金解禁を断行。当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり・・・輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃する形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は1929年(昭和4年)には0.5%、翌・1930年(昭和5年)には1.1%と経済失政であると評されることになる。・・・
 任期中に濱口自身が凶弾に倒れたため、その後の経済政策は第2次若槻内閣が引き継ぐ。そして1931年(昭和6年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況は民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相を務めた高橋是清のリフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策であった。犬養内閣において、成長率は1932年(昭和7年)に4.4%、1933年(昭和8年)に11.4%、1934年(昭和9年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8

⇒故山縣有朋らの危惧通り、東大法卒の濱口首相、井上準之助蔵相、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%BA%96%E4%B9%8B%E5%8A%A9
幣原喜重郎外相・・幣原外交のお粗末さにはここでは立ち入らない・・、という、東大法三バカトリオは、野党のやはり東大法卒の鳩山一郎の筋悪極まる統帥権干犯論攻撃を食らう(下出)という悲喜劇もあり、当時の日本をメチャメチャにしてしまった感があります。
その日本を、経済に関して救ったのが、無学の高橋是清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
だったというのですから、何をかいわんやです。(太田)

 昭和5年<1930年>・・・4月1日、海軍軍縮条約案の受諾を閣議決定し、ロンドン海軍軍縮条約を4月22日に調印した。・・・
 しかるに野党政友会の総務鳩山一郎が、条約調印翌日の23日から始まった第58議会で統帥権干犯論<(注19)>を唱えて条約批准に猛反対し、・・・浜口内閣を激しく攻撃した。・・・

 (注19)「1930年1月に開かれたロンドン軍縮会議では,難航のすえ,3月13日に日米妥協案が成立した。全権からの請訓にたいし,海軍軍令部長加藤寛治大将らは当初要求していた三大原則がいれられていないとして決裂を主張したが,浜口雄幸首相は,岡田啓介大将らの協力をえて,一応軍令部側の同意をとりつけ,受諾を回訓し,4月22日条約は調印された。しかし加藤は海軍の作戦に欠陥が生ずる旨を天皇に帷幄(いあく)上奏し,23日開会された第58特別議会では,野党の政友会は,政府が軍令部の意見をいれずに条約に調印したのは統帥権の侵害であると非難を加え,右翼も政府をはげしく攻撃した。・・・
 浜口雄幸首相は条約反対派の加藤寛治(ひろはる)軍令部長、末次信正(すえつぐのぶまさ)同次長を更迭することにより事態を収拾、条約批准を終えたが、このことが軍部、民間右翼に与えた影響は大きく、後の浜口首相狙撃事件、若槻礼次郎男爵・小山松吉法相暗殺未遂事件などの遠因となった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9%E5%B9%B2%E7%8A%AF%E5%95%8F%E9%A1%8C-580692

 浜口首相は・・・軍縮条約を批准させたが、同年11月14日、統帥権干犯論に触発された右翼青年佐郷屋留雄<(注20)>に拳銃で撃たれて重傷をおい、昭和6年<(1931年)>4月に後事を<同じ>民政党の若槻礼次郎に託して内閣総辞職し、闘病の末、8月に病没した。」(84、86~89)

 (注20)1908~1972年。「佐郷屋は殺人未遂罪で起訴されたが、1933年、殺人罪により死刑判決を受けた。1934年恩赦で無期懲役に減刑された。1940年に仮出所している。
 出所したのち、・・・玄洋社系統右翼団体<の>・・・愛国社社長岩田愛之助の娘婿になり後を継いで右翼活動を続け・・・る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%83%B7%E5%B1%8B%E7%95%99%E9%9B%84

(続く)