太田述正コラム#12790(2022.6.3)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その22)>(2022.8.26公開)

 「・・・海軍軍令部第二課長南雲忠一<(注31)>大佐は「五・一五事件の解決策」なる一文を著し、「(三上卓中尉ら海軍)青年将校の念願は強力な海軍を建設するにあり。

 (注31)1887~1944年。「山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で・・・旧米沢藩士・・・の次男として生まれる。・・・海兵36期を191人中5番の成績で卒業。・・・海大甲種第18期を次席で卒業。・・・
 艦隊派(軍縮条約反対派)の論客として知られ、山本五十六や井上成美と対立し、その政治的な活動(艦長の連判をとって、艦長の総意として連合艦隊司令長官に上申した)は外部にも知られていた。・・・
 <また、>1930年に開催されたロンドン軍縮会議の後、南雲は山下知彦らと同郷の先輩である左近司政三を含む条約派に辞職を迫り、後の大角人事に関係している。
 <そして、>1930年<には>・・・軍令部の権限拡大を図った「軍令部令及び省部互渉規定改正」では、海軍省軍務局第一課長の井上成美と激しく対立<。>・・・
 <更に、>1933年(昭和8年)頃、南雲は、日本のロンドン海軍軍縮条約からの脱退を求め、連合艦隊の各艦長、航空隊司令らの署名を集めた。・・・この署名は最終的に海軍大臣・大角岑生に提出された。この署名の写しは伏見宮博恭王に提出され、伏見宮は懸念を示し、加藤及び当時の連合艦隊司令長官・末次信正に注意を与えている。・・・
 1944年(昭和19年)3月4日、中部太平洋方面艦隊司令長官兼第十四航空艦隊司令長官。・・・サイパン島に着任する。・・・
 大本営は今までの痛い経験から、陸海軍の統一指揮体制の重要性を痛感しており、中部太平洋方面を防衛する日本陸軍第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)は連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊の指揮を受ける形となった。陸軍の地上部隊が海軍の指揮下に入るのは、建軍以来初めてのことで日本陸軍としては大きな譲歩であ<ったが>・・・、南雲の参謀副長には陸軍の田村義冨少将が就き、また地上戦の戦闘指揮は各師団長が行うという諒解もあっており、南雲の陸軍部隊への指揮権は形式的なものであった。・・・
 サイパンの戦いで自決。・・・
 奥宮正武中佐は「真珠湾攻撃成功の功績を山本五十六等に帰し、ミッドウェー海戦敗戦の責任を南雲に帰すのは矛盾である。」と指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%9B%B2%E5%BF%A0%E4%B8%80
 「1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。中心人物は、伏見宮博恭王、加藤寛治、山本英輔、末次信正、高橋三吉など。ロンドン条約時には東郷平八郎の威光を利用した。
 政治的には関与していないが、漸減邀撃作戦研究を強力に推進した中村良三、政治的には艦隊派ではないが、混乱を恐れて艦隊派の条約派一掃などの要求を拒絶せず丸呑みした大角岑生を艦隊派に含めることもある。また、政治的には僅かな権限しか持たなかったが、海軍省との交渉時に脅迫めいた姿勢で臨んだ南雲忠一のような若手を含めることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%A6%E9%9A%8A%E6%B4%BE

 (三上卓中尉ら)被告の至誠報国の精神を高揚し、動機を諒とし、死刑・無期(懲役)は絶対に避け、むしろロンドン(海軍軍縮)条約に統帥権干犯を生じた(軍縮派の)責任者に適当な処置(排除・処分すること)をとるべき」と述べた。
 これが五・一五事件に関する海軍軍令部の大方の空気だった。」(114)

⇒「これが五・一五事件に関する海軍軍令部の大方の空気だった。」には直接の典拠はつけられておらず、いくらなんでもそうではなかったと信じたいところですが、いずれにせよ、南雲の「五・一五事件の解決策」等の言動は、組織人として常軌を逸しており、こんな人物・・海外駐在経験がなさそうなことも気になる・・を真珠湾やミッドウェーで重用した帝国海軍そのものが常軌を逸していたと批判されてしかるべきでしょう。
 「注31」でも分かるように南雲に目の敵にされたところの、帝国海軍の良心めいた評価が戦後確立している井上成美(1889~1975年)ですら、「1925年(大正14年)、榎本重治海軍書記官に「治安維持法が近く成立するが、共産党を封じ込めずに自由に活動させる方がよいと思うが」と問われた井上は無言であった<が、>それから二十数年が経った戦後のある日、・・・井上宅を初めて訪ねてきた榎本の手を握って、井上は「今でも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。いまのように自由にしておくべきではなかったか。そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか」と語った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E
という挿話から、井上が、戦後、日本が先の大戦で敗北したという「神話」を毛ほども疑っていないことまでは咎めないとしても、戦前の共産党がソ連の手先であったことすら知らない暴論を吐いていること、また、「1927年(昭和2年)・・・11月1日、在イタリア日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官<として>ローマに着任した井上はイタリア人やイタリア軍についてネガティブな経験を重ねた<が、>これ<が>、井上が軍務局長時代に日独伊三国同盟に反対する理由の一つとなった」(上掲)という挿話の信憑性はともかくとして、下駄の雪に過ぎなかったイタリアではなく、肝心のナチスドイツについて、否定的評価をする者が日本でも少なくなかったにもかかわらず、そのような評価をする者達の多くも三国同盟締結を是としたのはどうしてかを軍務局長時代に熟考したようには思えないこと、そして何よりも、例えば、(妻を結核で失ってから)その自宅に一人娘を寄宿させて学校に通わせていたところの、(陸相も務めた)阿部信行、が井上の親戚だった(上掲)にもかかわらず、対英米戦を日本が始めたこと等も含めて、陸軍の上層部の真意を探ろうとした形跡が見られないこと、は極めて問題であり、その背景として、「井上は海大教官として甲種学生への戦略教育を担当した<ことがあるところ、>井上の戦略教育は理詰めであり「戦訓を基礎としない兵術論は卓上の空論に過ぎない」「精神力や術力(技量)を加味しない純数学的な(戦略)講義をすることは、士気に悪影響を及ぼす」という批判<を>受けた」という挿話から分かるように、井上が、悪しき意味での理系人間だったこと、があると思われるのであって、彼が、陸軍に入っていたならば、間違いなく、使い物にならない人物として早期に予備役に回されていたことでしょう。
 こういったことから、私は、日本が杉山構想に基づいて先の大戦を開始した頃までに、既に海軍では人材が払底していた、と、取敢えずは見るに至っている次第です。(太田)

(続く)