太田述正コラム#12794(2022.6.5)
<鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む(その24)>(2022.8.28公開)

 「・・・軍令部長伏見宮元帥は斎藤実内閣において、・・・「軍令部条例及び海軍省軍令部業務互渉規定」の改定を主導した。・・・
 <その>結果、一、軍令部の権限が大幅に強化され、海軍省の統制力は縮小された。二、軍令部長の呼称が軍令部総長に変った。三、海相人事については、伏見宮の同意を得る不文律が確立した。・・・
 さらに・・・大角峯生<(注33)>海相・・・にロンドン海軍軍縮条約を推進した条約派将官の粛清を要求<し>、大角海相は・・・、昭和8年3月から昭和9年12月にかけて山梨勝之進大将・・・谷口尚真大将・左近司政三中将・寺島健中将・堀悌吉<(注34)>中将・・・らを海軍から追放した。
 これが「大角人事」と云われる条約派将官の粛正追放人事である。」(118~120)

 (注33)1876~1941年。「<愛知県の農家に生まれる。>海軍兵学校・・・24期<。>・・・海軍大学校<。>・・・海軍次官<等を歴任の後、>・・・犬養内閣の海軍大臣<。>・・・
 大角は、陸軍参謀総長に閑院宮載仁親王元帥が就いていることを勘案して、伏見宮博恭王大将を軍令部長に推した(陸軍が皇族総長の威光で海軍を圧迫する可能性を封じる意図もあったという。昭和7年(1932年)に伏見宮は元帥となり、東郷平八郎の死後は海軍最長老となる)。これが後に自らを窮地に追い込むことになる。
 着任から半年後、首相・犬養毅が五・一五事件で海軍将校に暗殺されたため、大角は引責辞任を余儀なくされた。現役海軍将校が徒党を組んで首相を暗殺した際の海相ということを考えれば予備役になってもおかしくなかったが、世論に暗殺犯への同情が強かったこともあり現役にはとどまることができた。
 犬養の後継に首班指名されたのが海軍の重鎮である斎藤実大将であったことと五・一五事件の収拾を図る必要があったことから、大角はあえて長老の岡田啓介大将を後任に指名した
 しかし、岡田には定年退職(65歳)の期限が迫っていた。これが計算ずくなのかは不明だが、岡田の定年に合わせて大角は昭和8年(1933年)1月に海軍大臣の座に復帰した。この復帰により、大角は後世から数々の批判を受ける決断を重ねる。
 まず強硬な艦隊派の領袖であった軍令部次長・高橋三吉が、戦時のみ軍令部に移譲されていた海軍省の権限の一部を平時にも軍令部に引き渡すよう要求してきた。当然ながら官僚気質の大角は、既得権を放棄する気はない。
 しかし、局長部長や次官次長の激論は平行線で終わるものの、大臣・部長級の議論となれば、大角の相手は皇族である伏見宮である。部下たちの議論は平行線が続き、最高責任者同士の交渉に持ち越された。
 伏見宮の威光を前に、大角は艦隊派(軍令部側)の要求を次々と認めていく(伏見宮はこの件について「私の在任中でなければできまい。是非やれ」と部下を督励しており、皇族の威光で押せば大角は折れると読んでいたようである)。
 <更に>、軍令部からは将来の軍拡路線を妨害する恐れのある将官の追放を要求された。・・・「大角人事」・・・人事である。
 海軍内で弾圧の片棒を担がされている頃、外交問題で重大な局面を迎えていた。リットン調査団の報告に日本は反発し、国際連盟脱退も辞さない空気がみなぎった。・・・
 二・二六事件<が起こり、>・・・海軍出身の首相・岡田啓介、内大臣・斎藤実、侍従長・鈴木貫太郎が襲撃されたため(斎藤は死亡、鈴木は重傷、岡田は死亡と報道されたが無事であった)、海軍省内では反乱軍との徹底抗戦論が沸き起こった。しかし大角は的確な処理を下せず狼狽するばかりだった。・・・
 反乱鎮圧後、大角は海軍大臣を永野修身大将に譲り、軍事参議官となる。・・・
 <航空機事故で死亡。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F
 (注34)1883~1959年。「<大分県の農家に生まれる。>海軍兵学校・・・(兵32期)・・・首席(クラスヘッド)<で、>同期生には、山本五十六、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾らがいる。・・・海軍大学校・・・次席<。>・・・
 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議において、・・・補助艦の比率は米英に対し7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。海軍省軍務局長であった堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見を持ち、会議を成立させるべきという立場で海軍次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。結局は米国と日本の妥協が成立し、日本は対米比6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。・・・
 <その結果、>海軍中央から遠ざけられることになった。1931年(昭和6年)12月に海軍省軍務局長から第3戦隊司令官に転じた堀は、1932年(昭和7年)1月に生起した第一次上海事変に参戦したが、堀は第3戦隊司令官としての行動を末次信正(兵27期)ら艦隊派から強く批判された。
 ・・・伏見宮・・・軍令部長・・・<は>堀は実施部隊の指揮官には不適者だ<と>・・・述べた。・・・
1.人事権者である大角岑生海相(兵24期)は、堀が第2艦隊参謀長を務めた時の第2艦隊司令長官であり、かつてコンビを組んだ堀に同情的であった。終始、大角は堀を現役に残そうと努力しており、堀自身も大角の尽力を多としていた。
2.昭和8年12月に、堀が海軍中将に進級すると同時に軍令部出仕となったのは、予備役編入を前提とした人事ではない。堀が軍令部出仕のまま1年も現役に止まったのは異例であり、大角海相が艦隊派の攻勢から堀を辛うじて守った結果の「奇策としての軍令部出仕」であった。
3.昭和9年12月に堀が予備役編入となったのは、伏見宮博恭王を除けば現役最先任者となっていた加藤寛治(兵18期)の圧力に、大角海相が抗しきれなかったため。大角にとっては苦渋の決断であった。
4.昭和9年度の人事(発令は昭和9年12月・昭和10年3月)では、堀より1期上の兵31期クラスヘッドで、艦隊派の有力メンバーであった枝原百合一中将も予備役となった。枝原と堀はいずれも50代前半で、予備役編入が過早であるのは同様であった。人事権者である大角海相は、艦隊派の兵31期クラスヘッド(枝原)と条約派の兵32期クラスヘッド(堀)を同時に予備役編入することで「痛み分け」としたと考えられる。・・・
 堀の戦争観を、筒井清忠は下記のように要約する。
 「戦争そのものは明らかに悪であり、凶であり、醜であり災である。然るに之を善とし、吉とし、美とし、福とするのは、戦争の結果や戦時の副産物等から見て戦争実体以外の諸要素を過当に評価し、戦争実体と混同するからに外ならない」・・・
 <また、>堀は下記のように記している。
 凡そ軍備は平和を保証するに過不足なき如く整備すべきである。……小に失すれば無軍備よりも却って危険な事があり大に失すれば……野心の徒輩が、使用の方策を誤り不法無謀の事に之を濫用したがるのおそれがある。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89

⇒さて、これまた、帝国海軍の良心として名高い堀についてですが、その「戦争観」なるものに対しては、それが戦争によるものであれ死刑執行の結果であれ、正当防衛等によるものであれ、はたまた犯罪としてのものであれ、殺人が「悪であり、凶であり、醜であり災である」ことを否定する「健常者」などまずいないけれど、それがどうかしましたか、としかコメントのしようがありませんし、常備兵力量は過少であったらだめである一方過大である必要もないとの主張に対しては、当たり前の話でしょう、兵力の悪用を防止すべきとの主張もまた当たり前の話でしょう、が、その2つの話の間に直接の関係などあるわけがありませんし、一番むつかしいのは、例えば当時の日本にとって「平和」とは何かであるところ、それについて、堀さんは何も語っていない、いや、恐らく語るべき何物も持ち合わせていなさそうですね、というわけで、ただただ呆れるほかありません。
 兵学校(士官学校=旧制高校相当)の時の成績が後々までついて回るのに対し、大学校(大学相当)の時の成績はさほど重視されないらしい上、そもそも、陸軍のような幼年学校がない、といったことが、帝国海軍の幹部養成システムの欠陥を示唆しており、堀のような利巧馬鹿もまた、そのような欠陥システムが必然的に生み出す幹部諸類型中の一典型である可能性が大だと思います。(太田)

(続く)