太田述正コラム#12808(2022.6.12)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その2)>(2022.9.4公開)

 「・・・高杉が創設した奇兵隊では、三代目総管の赤根武人<(注1)>(あかねたけと)が長州藩内で内戦が起こることを嫌い、「俗論派」の藩当局との妥協をめざしていた。

 (注1)赤禰武人(1838~1866年)。「医師・・・の次男に生まれた・・・。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の郷校である克己堂で学ぶ。・・・1856年・・・、短期間ではあるが吉田松陰の松下村塾に学ぶ。
 ・・・1857年・・・、長州藩重臣浦家の家老・赤禰雅平の養子となり、陪臣ながら武士の身分を手に入れ梅田雲浜の望南塾に入塾。安政の大獄に伴い師・雲浜が捕縛されるに伴い赤禰も捕縛されるが、釈放され帰郷。その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受ける。
 ・・・1862年・・・4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて尊王攘夷活動を行い、御楯組に加盟。同年12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わり、・・・1863年・・・5月の下関戦争に参加、同年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。この時、奇兵隊に同郷・同門の世良修蔵を招聘している。
 ・・・1864年・・・8月・・・の第一次長州征伐後、赤禰は藩内の融和を図るが、当時の藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を行った事が同志に二重スパイとして疑われる契機となる。更に、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、幕府の攻囲を前に内戦を行うことを危ぶむ赤禰はこれに反対し高杉と対立する。186<4>年・・・12月・・・、高杉による功山寺挙兵が成功すると藩内での立場を失い、出奔して上方へ赴く。
 その後、幕府に捕縛されたが、幕府大目付・永井尚志や新撰組参謀・伊東甲子太郎らは長州藩の鎮撫工作に赤禰を利用することを画策、赤禰は11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これも、赤禰が更に疑われる原因となった。幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認識されていた赤禰の言は全く受け入れられなかった。工作は成功せず、生誕地である柱島に潜伏していたところを、12月に長州藩士・槇村半九郎に捕縛される。赤禰は弁明を望むが、取調べは一切行われず、翌年1月、山口の鰐石で処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%B0%E6%AD%A6%E4%BA%BA
 「1862年、長州藩の高杉晋作は、「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じていた。
 折りしも、外国公使がしばしば武蔵国金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志らと相談した。しかし、同藩士の久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したことから、無謀であるとして土佐藩主・山内容堂を通して藩主・毛利定広に伝わり実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。
 186<2>年<12>月<12>日、高杉・志道聞多・伊藤俊輔ら御楯組の12名は品川御殿山で建設中の英国公使館の焼討ちを決行。犯人は発覚しなかった・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E5%85%AC%E4%BD%BF%E9%A4%A8%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 「英国公使ラザフォード・オールコックは他の公使とともに幕府に公使館建物の建設を依頼し、建設費の10分の1の年賃貸料で借りることで合意。オールコックが簡単なスケッチ図を提供し、それをもとに幕府作事方が文久2年春に建設を開始。12月には建物はほぼ完成し、翌年に<英国>公使館として用いられることになっていた。焼討ちにより全焼し、オールコックは政情不安な江戸ではなく公使館を横浜に置くことにした。焼失しなければ、江戸最初の洋館建築となっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E5%85%AC%E4%BD%BF%E9%A4%A8%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 隊内でも高杉の決起が成功する可能性を危ぶんで、賛同した者は少なかった。
 山県も、奇兵隊や諸隊が一致した後に決行すべきであると考えて、高杉の決起を支持しなかったのである・・・。・・・
 翌・・・1865<年>1月2日に奇兵隊総管の赤根は馬関より脱走したので、山県が総管の職務を代行することになった。・・・
 長州藩は幕府側の諸藩との戦争に備え、奇兵隊や諸隊にならって軍備の西欧化を進めた。
 このために軍艦や最新のミニエー銃等の兵器が必要であった。
 ・・・1865<年>7月から伊藤博文(俊介)、井上馨(志道聞多)は長崎に行き、薩摩藩邸に潜伏し、「薩摩藩留守居役」の名でそれらをイギリス商人から買い集めた・・・。・・・
 山県は、木戸や伊藤のような時代を先取りし交渉が得意な人物は苦手であった。
 むしろ・・・西郷隆盛や、奇兵隊の福田侠平<(注2)>・時山直八<(注3)>や前原<(注4)>のような愚直な武断派的人物と、心を通わせることができたのである。」(42~45)

 (注2)1829~1868年。「長州藩士・・・の次男として生まれた。のちに・・・福田貞八の養子となり、福田姓を名乗る。
 ・・・1863年・・・、侠平35歳のとき、下関で奇兵隊が結成されると志願して入隊。元治元年(1864年)には書記役として英仏蘭米四カ国連合艦隊との戦闘(下関戦争)に従軍、同年参謀へと昇格し、翌・・・1865年・・・には山縣有朋とともに軍監を兼務することとなる。
 高杉晋作の功山寺挙兵に際してはこれを暴挙として高杉の馬前を遮って止めようとしたが、最終的には高杉に同調し、奇兵隊士を集めてこれに参戦した。その後絵堂・大田の戦い、第二次長州征討(四境戦争)では小倉口の戦いを歴戦し、戊辰戦争においては北越戦線から陸奥へと転戦する。・・・
 北越・陸奥戦線から帰還し明治政府の成立を祝って大酒をしていたところ、2日後に倒れそのまま急逝した<。>・・・
 総督である高杉よりも10歳上の福田は良き相談役であるとともに、若い志士たちの軽挙を諫める思慮深い一面もあった。このことから、高杉晋作が最も信頼した男とも言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E4%BE%A0%E5%B9%B3
 (注3)1838~1868年。「士雇・・・の子として生まれた。
 同藩の槍術師範・岡部半蔵に宝蔵院流を習う。また、・・・1850年・・・頃、吉田松陰の松下村塾にて学んだほか、安井息軒にも師事している。
 高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加するが、攘夷の不可能を悟ると討幕運動に邁進した。京都の藩邸で諸藩応接掛を務め、八月十八日の政変や禁門の変、長州征伐などの数々の戦争において、奇兵隊参謀として活躍した。
 ・・・1868年・・・、北越戦争における越後長岡藩との朝日山攻防戦において、陣頭に立って指揮し立見尚文率いる桑名藩兵と戦ったが、顔面を狙撃されて即死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%B1%B1%E7%9B%B4%E5%85%AB
 「岡部半蔵の元に入門。同門の山県有朋と稽古に明け暮れました。・・・
 吉田松陰は直八のことをえらく気に入り、「中々の奇男子なり、愛すべし」と評価するくらい優秀だったことがうかがえます。・・・」
https://bajpho.com/280/
 (注4)前原一誠(1834~1876年)。「長州藩士・・・の長男として生まれ、前原氏を相続する。・・・1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。
 ・・・1862年・・・に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。・・・1863年・・・、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。
 維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。
 やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。・・・
 吉田松陰<いわく、>「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」「・・・八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%8E%9F%E4%B8%80%E8%AA%A0

⇒伊藤が、何をもって、山縣が「時代を先取り」するような人物ではない、或いは、「西郷隆盛や、・・・福田侠平・時山直八や前原」が「愚直な武断派的人物」だとするのか、私には、さっぱり分かりません。
 なお、長州藩に限っても、幕末・維新期に早く亡くなった吉田松陰は、その事績に加えて、彼に薫陶を受けた弟子達を通じても生き続けたところ、その他の、「普通に」早く亡くなった人々の中、高杉、久坂玄瑞、大村益次郎、前原、らほど、その事績が知られていないところの、赤根、福田、時山、のような志士達の存在も、我々は忘れないようにしたいものです。(太田)

(続く)