太田述正コラム#12812(2022.6.14)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その4)>(2022.9.6公開)

 「・・・山県は次のよう<な和歌を>詠んだ。
 むかふ仇あらはうてよとたまはりし つゝのひゝきも世にやならさむ
 (久光公から向かって来る敵があれば撃てとピストルを下賜されたからには、倒幕の銃の響きを世の中に鳴らそう)・・・

⇒「刀剣は、江戸時代にも将軍への献上、大名への下賜の品として重用された。」
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b357763.html
ところ、刀剣の贈答は上下関係にある者同士で行われたというのが私の理解であり、その伝で行けば、久光から山縣へのピストルの下賜は、山縣がこの時点で事実上の薩摩藩士になったか、既にそれまでにそうであったかを示しているのではないでしょうか。
 で、私は、後者だったと思っている(コラム#省略)わけです。
 ちなみに、斉彬が薩摩藩主の時代には水戸藩士だった日下部伊三治を薩摩藩士にもらい受けており(コラム#省略)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E4%BC%8A%E4%B8%89%E6%B2%BB
また、実質的な薩摩藩主が久光に代わってからは、土佐藩を脱藩した大石団蔵を高見弥一として藩士に採用していて、坂本龍馬も恐らく同様に藩士に採用していた可能性が高いとされており、
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68949
秘密裡に事実上他藩と自藩に共属させた山縣のようなケースがあったとしても、それほど不思議ではないのではないか、と思うのです。
 ちなみに、横井小楠は、熊本藩士でありながら、都合4回、賓師として福井藩で勤務しているところ、福井藩士になったわけではありませんでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0 (太田)

 しかし、約束の一週間が過ぎて7月に入っても、西郷は長州に現れなかった。
 7月15日、西郷の使いの者が、7日付の西郷の手紙を持って長州にやってきた。
 手紙には、土佐藩・・・の後藤象二郎が薩土盟約の話を持ってきたので、土佐藩の決断を待っていて遅れたと述べられており・・・、後藤象二郎の手紙が同封されていた。
 山県ら長州藩側には知らされていないが、すでに6月22日に薩土盟約が結ばれていた。
 この盟約で、後藤が意図していたことは即時挙兵ではない。
 まず慶喜に大政奉還の建白を行わせることをめざし、もし応じないなら挙兵しようというものだった。・・・
 1867<年>9月下旬になると、長州藩では奇兵隊など諸隊の一部を大坂方面に薩摩船を使って送ろうとしたが、薩摩船は10月になっても現れなかった。
 長州藩に協力するかに見えた芸州(広島)藩も動かなかった。
 10月下旬、山県は藩主の命で政務役御堀耕助<(注6)>とともに芸州藩へ行き、薩長芸三藩が連合すべきであると説いたが、同藩は迷うばかりで決断しなかった・・・。

 (注6)みほりこうすけ(1841~1871年)。「長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門、塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。
 ・・・1863年・・・5月、長州藩による馬関海峡(関門海峡)での米仏商船砲撃に参加。同年、中山忠光が大和国での挙兵に失敗し(天誅組の変)、敗走して大阪の長州藩邸に逃れてくると、下関までの警護を務める。
 ・・・1864年・・・7月の禁門の変に参加、破れて帰藩。四国連合艦隊との戦闘に参加後、山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を結成し総督となる。同年12月(1865年1月)、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)すると、これに呼応して御楯隊を率いて俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍。
 ・・・1865年・・・、太田市之進から御堀耕助に改名。
 ・・・1866年・・・の第二次長州征伐に対して、御楯隊を指揮し芸州口方面で戦う。
 ・・・1867年・・・、参政となる。同年8月、柏村数馬と共に京都に赴き、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らと倒幕の実施計画について会談。
 ・・・1869年・・・、藩命により山縣有朋、西郷従道と共に欧州視察に向かうが、香港まで行って病気のためいったん帰国し、同年11月、日本公務弁理職(総領事)に任命されて渡仏するモンブラン伯爵と秘書の前田正名とともに横浜を発ち、パリで山縣たちに合流した。帰国後、薩摩で治療を受けていたが病状が悪化して三田尻へ帰り、病床を見舞った従兄弟の乃木希典(乃木の父・希次が御堀の父・要蔵の弟)を黒田清隆に紹介し、乃木が陸軍で栄達するきっかけを作った。・・・
 病死<。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%A0%80%E8%80%95%E5%8A%A9
 「御楯隊(みたてたい)は、・・・・・・1864年・・・8月、禁門の変に破れた太田市之進、山田顕義、品川弥二郎らが中心となって結成。総督は太田市之進<(御堀耕助)>、隊士230名。三田尻を屯所とする。同年12月15日・・・、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)すると、これに呼応して俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍。この際に隊士玉木彦助が落命している。第二次長州征伐では、芸州口方面で遊撃隊などと共に幕府軍と戦う。・・・1867年・・・に鴻城隊と合併し、整武隊となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%A5%AF%E9%9A%8A
 柏村数馬は、広沢真臣の実兄で、藩主毛利敬親の世子元徳の側近であり、
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E6%B2%A2%E7%9C%9F%E8%87%A3-121944
「嘉永四年御小姓役に任用せられたが、それから御使. 番役、番頭役、御直目付等を歴任し、明治になっては権大参事となり、4年11月以来毛利家の家令となって28年12月に卒去した。」
http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/2117.pdf

 山県はこの年の5月に京都へ派遣されて以来、奇兵隊軍監の地位を超越して、藩の重役とともに他藩との交渉に臨むほど政治的な地位を上げていた。
 伊藤博文とほぼ同格になったといえる。」(56~60)

⇒山縣の場合は、薩摩藩に強いコネを持っていることが長州藩内で認められていて、それが重宝されたということでしょう。(太田)

(続く)