太田述正コラム#12824(2022.6.20)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その10)>(2022.9.12公開)

 「・・・山県のような兵部省・陸軍省の幹部であっても、当初は文官であり、軍人の位を持っていなかった。
 兵部省では明治4年7月から主要ポストに就いている者を武官化していく。
 山県もここで武官となったのだった・・・。・・・
 徴兵令が施行される前年、明治5年(1872)に山県は大変な窮地にさらされた。
 いわゆる山城屋事件である。・・・

 (注14)「明治初年の陸軍部内の汚職事件。陸軍省御用商山城屋和助は長州藩奇兵隊の出身で,同じ奇兵隊出身の山県有朋と親しく,兵部大輔のち陸軍大輔の山県を通じて陸軍省官金約65万円の不正融資を受けた。名目は輸入物仕入代金であった。これを流用してパリで豪遊していることが外務省の報告により問題化し,山県はあわてて返却を要求したが,山城屋はこれに応じることができず1872年(明治5)11月陸軍省内で割腹自殺した。・・・
 関係書類はいっさい焼却済みであったが、山県への疑惑は強く、1873<(明治6)>年4月に起きた三谷三九郎(みたにさんくろう)事件とも相まった司法卿江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年4月、ついに山県は陸軍大輔をも辞任して責任をとった。」
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 「三谷三九郎事件<は、>1873年(明治6)に起きた陸軍省御用商人三谷三九郎の破産にかかわる官公預金費消事件。三谷家は江戸時代から代々両替商を営んできており、三九郎は、1868年(慶応4)の会計基立(もとだて)金調達に応じ、また官金出納業務を取り扱うなど、三井、小野両組と並び称される江戸屈指の大商人であった。ところが72年、三谷家の手代が水油投機に失敗、その穴埋めに官公預金を利用し30万円の損失を生じた。この対策に、翌年1月東京商社から45万円を借金、さらに横浜の外商から10万円の借入れを試みたが、4月に二重担保を告発され問題化した。当時は山城屋事件など公金費消事件が多く発生し、そのため陸軍省では会計検査が厳重で、調査のなかでさらに三谷組の5万円の不渡りが発覚してついに同組は破産した。明治政府内部の抗争および三井組との対立が絡むともいわれる。」
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 「三谷三九郎<は、>江戸で明暦年間(1655‐58)以前から続いた本両替商の名。・・・大名貸で活躍した大坂の鴻池善右衛門と江戸の三谷三九郎は,東西を代表する御用達と称された。・・・とくに米沢,秋田,会津など東北諸藩への大名貸を行い,大坂の鴻池と並び称された。米沢藩では三谷に禄高700石の待遇を与え,金融面だけでなく上杉鷹山の殖産興業政策に深くかかわり,蠟,青苧(あおそ),絹織物の一手販売まで行わせていた。会津藩でも天明・寛政(1781‐1801)の改革は三谷だけの資金調達で実施されており,1800年・・・には藩の三谷からの借金は10万8000両に及んだという。・・・幕府の寛政改革に際しても,・・・1788・・・年(一部は翌年)任命された勘定所御用達10人の頭取として活躍。」
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⇒当時の日本は、現在で言う、欧米化途上の発展途上国であり、ミャンマーやウクライナくらいの腐敗状況にあった、と見てよいでしょう。
 もともと、江戸時代の幕閣等は賄賂文化にどっぷり浸かっていたわけですし・・。(太田)

西郷隆盛参議・・・<は、>山県と近衛局の薩摩系将校・・山県が徴兵制を推進しようとしたことや陸軍省の長州系幹部<である>・・・山県・・・が近衛兵を統制することへの反感<を抱いていたこともあり、山城屋事件を契機に山県排斥運動を始めていた>・・の間の調停を行った。
 こうして、山県と西郷従道がそれぞれ近衛都督と副都督を辞任し、陸軍大輔と少輔はそれまで通り続けるという妥協が成立した。
 近衛都督には、参議の西郷隆盛自らが就任することになった。
 西郷は7月19日に都督になると同時に、前年に制定されたものの、誰も就いていなかった陸軍元帥の兼任を命じられた。
 元帥は軍人の最高の位である。
 若い天皇は西郷にその地位を与えることで、薩摩系将校をなだめたのだった。
 こうして、山県は西郷のおかげで一応危機を脱した。」(98~101)

⇒前に記したように、西郷が山縣と義兄弟の契りを交わしていた、とでも想定しないと、西郷が、自分の弟を山縣の直属の部下として差し出した上で、ここまで、山縣を親身になって庇う理由が説明できないのではないでしょうか。(太田)

(続く)