太田述正コラム#12832(2022.6.24)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その14)>(2022.9.16公開)

 「・・・西南戦争に際しても、閣議が軍の重要人事も含めて大枠を決めている。
 山県はこの閣議のメンバーであり、戦地の作戦の実質的な最高責任者となった。
 また、・・・大阪に征討総督本営が置かれ、大久保・伊藤両参議らが軍の動員や編成、全体の戦略にあたることになった。・・・
 大阪の大久保と伊藤は、後の時代に陸軍参謀本部が主導した大本営の役割を担ったわけである。・・・

⇒東京には権威のトップといいうか、傀儡の明治天皇が留まり、大阪に権力のトップの大久保とその補佐の伊藤が鎮座し、次期権力トップの山縣は、九州で事実上の軍総司令官を務めた、というわけです。(太田)

 士族を特別に募り部隊を作ると、始まったばかりの徴兵制の原則が崩れてしまう。
 三条実美太政大臣も士族を募ることに反対<だった>・・・。
 そこで山県は、巡査を募るという形で、士族として募集せずに実質的に士族中心の部隊を作り、政府軍への増援隊とした。<(注18)>」(139、148)

 (注18)「西南戦争が起きた1877年(明治10年)2月、綿貫吉直少警視が指揮する600名の警察官が九州地方へ派遣され、次いで重信常憲少警視を長とする900名が福岡、佐賀へ、上田良貞大警部、園田安賢中警部を長とする200名が福岡へ増派された。
 それとともに国内治安を確保するため、東北地方等から5200名の巡査を徴募して東京の警備に当たらせ、さらに巡査4000名を徴募して大阪に900名、京都に300名、神戸に1800名、九州地方に5900名を増派した。これら総員9500名の部隊が警視隊である。警視隊をもって別働第三旅団が編成され、川路利良大警視が陸軍少将を兼任して旅団長(司令長官)を務めた。川路は同年6月に司令長官を辞任し、別働第三旅団は大山巌陸軍少将(後の第2代大警視)が指揮する新撰旅団に再編成された。
 警視隊の本来の役割は占領地の治安維持,軍隊内犯罪の取り締まり・・当時,陸軍に憲兵科はな<か>・・・った・・など陸軍の後方支援を行うことであったが、戦闘にも参加して戦力を補った。士族(旧武士)が中心の部隊であったことから、徴兵された農民中心の鎮台兵以上に奮戦したという。西郷軍は「赤い帽子(近衛兵)に銀筋(警視隊)なくば、花のお江戸へおどり込む」と嘆いたといわれる。
 先込め式の一つ弾の銃を渡されたが、一発発射すると熱が冷めるまで待ち、再び先端から火薬を詰めて撃つという頼りにならないものであったため、各自は主として日本刀を武器として戦ったという。・・・
 戦死、戦病死者は878名。東京招魂社(現靖国神社)に祀られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E8%A6%96%E9%9A%8A
 「抜刀隊は、1877年(明治10年)の西南戦争最大の激戦(勝敗の分水嶺)となった田原坂の戦いにおいて、川路利良が率いる警視隊から組織された別働第三旅団から選抜して臨時に編成され投入された白兵戦部隊。・・・
 田原坂の戦いにおいて、西郷軍による斬り込み攻撃により帝国陸軍では死傷者が続出した。数に勝る帝国陸軍において人員の大多数を占める鎮台の兵は、主に徴兵令によって徴兵された平民で構成されており(将校や下士官は士族が多数を占めるがあくまで兵を統率する指揮官であり、人員数も少ない)、士族中心だった西郷軍との白兵戦に対応しにくかったとされる。こうした状況下による事態を打開すべく、薩摩士族を中心に全国の士族で構成され、帝国陸軍の隷下で別働第三旅団の隊号を持ち後方支援を行っていた警視隊(内務省警視局職員、のちの警視庁警察官)の、川畑種長大警部(薩摩)、上田良貞大警部(薩摩)、園田安賢中警部(薩摩)らが、征討参軍山縣有朋陸軍中将(長州出身)に対し、田原坂近辺を担任(進出)していた植木口警視隊から剣術に秀でた者を選抜して投入することを上申した。徴兵令の主唱者である山縣にとって、彼らの力を借りることは不本意であったが、結局山縣はこれを許し、自ら隊号を選んで「抜刀隊」と命名し、百十余名をもって第一次抜刀隊が編成された。
 別働第三旅団こと警視隊の指揮官は当初は川路利良大警視(初代警視総監、鹿児島県士族)が陸軍少将を兼任して司令長官(旅団長)であったが、川路は西南戦争中の1877年(明治10年)6月に司令長官を辞任し、後任には大山巌陸軍少将が大警視を兼任し就いている(別動第五旅団司令長官兼)。また、別働第三旅団(警視隊)は警察官を主体にして編成された部隊であるが、同旅団参謀長中村尚武陸軍中佐(のち田辺良顕陸軍歩兵中佐兼少警視)を筆頭に指揮官職の多くには陸軍軍人が充てられており、同時に陸軍軍人兼警察官ないし警察官兼陸軍軍人も相当数が存在している。なお、当時の内務卿:大久保利通も鹿児島県士族である。すなわち、明治六年政変で薩摩に帰郷(下野)した西郷隆盛とそれに続いた西郷一派とたもとを分かち、東京に残った大久保一派である川路利良、それに連なる薩摩出身の警視局職員が抜刀隊の主力を成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%9C%E5%88%80%E9%9A%8A

⇒熊本城を巡る戦いや田原坂の戦いは旧肥後国で行われたわけですが、「作家の津本陽氏もその著作で、「西郷の家系は後醍醐天皇の忠臣・菊池武時の流れを汲んでいる。元禄年間に肥後から島津家の臣となった」と述べている。また西郷自身奄美大島に流された時〝菊池源吾〝と名乗った。現在、[熊本県北央部の]菊池郡七城町に「西郷」という集落がある。一帯は菊池十八外城の一つ増永城跡で、城主が、西郷氏。初代・西郷太郎政隆から32代目が隆盛である。」
https://kumamoto.guide/look/terakoya/009.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E9%83%A1 ([]内)
ようですね。
 また、熊本城を巡る戦いも田原坂(注19)の戦いも、どちらも加藤清正が築いた軍事拠点であり、前者では薩軍は攻めあぐねた一方、後者では守りに用いてねばったけれど敗れた(上掲)ものです。(太田)

 (注19)「田原坂(たばるざか)は、<現在の>熊本県熊本市北区植木町豊岡一帯の地名。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%9D%82

(続く)