太田述正コラム#12840(2022.6.28)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その16)>(2022.9.20公開)

 「・・・西南戦争を通して、山県は二つの教訓を得た。
 一つは戦略を統轄する陸軍参謀局を充実させる必要性であり、もう一つは予想以上にもろかった徴兵制の兵士の強化である。・・・
 参謀局は、佐賀の乱が起きたのをきっかけに1874年(明治7)2月22日に設置された。・・・
 しかし・・・佐賀の乱などの士族反乱の鎮圧や西南戦争においてすら参謀局や参謀局長は積極的な役割を果たせなかった。
 西南戦争においても、大久保利通・伊藤博文らの文官の有力参議が部隊司令長官の人選を行い、<当時の>・・・参謀局長<の>・・・鳥尾小弥太<(注20)(コラム#12602)>・・・中将の支援を得て部隊の配置などの戦略を担った。

 (注20)1848~1905。「長州(萩)藩士中村敬義の長男。乱暴,剽悍 のため父母から放逐,自ら鳥尾と名乗る。・・・1858・・・年江川太郎左衛門の門下となり,・・・1863・・・年奇兵隊に入る。戊辰戦争では鳥尾隊を編成して各地に転戦した。明治3(1870)年紀州(和歌山)藩の兵制改革を担当したあと兵部省に出仕。4年陸軍少将,陸軍省軍務局長などを経て,7年大阪鎮台司令長官。9~11年参謀局長。西南戦争(1877)では行在所陸軍事務取扱として兵站輜重を担当した。12~13年近衛都督となるが出仕せず,14年開拓使官有物払下げ事件が起こると,谷干城らと払下げの再議,「国憲創立議会」の開設を建白,以後藩閥批判の立場を強めた。15~18年内閣統計院長,19~20年ヨーロッパに出張,21年には日本国教大道社を設立して保守中正派を組織した。22年大隈重信外相の条約改正案に反対して,「大審院における外国人判事の任用は憲法違反」と非難,大隈に辞職を勧告,また民間の反対集会に参加したため戒諭された。23~28年貴族院議員。」
https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E5%B0%BE%E5%B0%8F%E5%BC%A5%E5%A4%AA-585704

 しかし部隊の増派をめぐって混乱も生じた。
 また、九州の戦地では、征討総督の下で参軍が指揮の実権を持った。
 これは戊辰戦争の時と変わらぬやり方である。
 熊本鎮台(熊本城)を救援する際に、山県参軍と黒田清隆参軍が対立するという、戊辰戦争期の北陸での戦いと同じことが起こった。・・・

⇒「陸軍の山縣が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、山縣と黒田の対立が激化したため、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山縣の下に属し従軍を続けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 前掲
ことを指しているのでしょうが、両者間の軋轢は両者の上司達にによって公的に解決されたのに対し、戊辰戦争の時は、政府軍と言っても藩兵の寄せ集めに過ぎず、伊藤が言及している北越戦争においては、山縣が長州藩兵を、黒田が薩摩藩兵を率いており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
「薩長兵間の対立が続き、特に長州藩兵の黒田参謀への不満は高まる一方であった。このため山縣は一時参謀を辞職したが、改めて参謀に任ぜられた。薩長兵の仲が悪いまま別々に行軍するなど問題続きだった。この問題は西郷が現地に赴き、慰められた山縣が薩長に気配りしたことで解決している」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B 前掲
と、両者の上司ではあっても実権のない西園寺公望総督(上掲)による公的な解決ではなく、西郷や山縣自身による私的な「解決」がなされる他なかったのであり、事情が全く異なります。
 両者の間で様々な軋轢が生じるのは当然だったのです。(太田)

 戦いを終えて山県は強い不安を感じたに違いない。・・・

⇒勝手な想像をされては困ります。(太田)

 翌1878年5月14日、参議兼内務卿で政府の中心だった大久保利通が、東京紀尾井町で暗殺された。・・・
 この4年前の台湾出兵の頃から、大久保は後継者を伊藤博文参議と見なした行動を取ってきたので、政府に大きな混乱はなかった。
 5月15日、伊藤参議は工部卿を辞めて内務卿に就任する。
 山県が参議兼陸軍卿になれたのは、大久保と伊藤のおかげだった。
 今の山県は、伊藤中心の新しい体制を支えるしかない。」(169~171)

⇒私は、内務卿が筆頭閣僚・・実質的な首相・・と見なされたのは、陸軍を掌握していた山縣が内務卿になった1883年から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%8D%BF
内務卿改め内務大臣を辞任した1888年まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
の間だけであると見るに至っており、現に、山縣の内務卿としての前任者は山田顕義である(上掲)ところ、山田の事績において、内務卿の時期は何ら特別視されていません。(注21)

 (注21)「明治14年(1881年)10月、参議兼内務卿に就任する。明治16年(1883年)4月、東京府の都度重なるコレラの流行などを受け、衛生上の理由から東京府知事芳川顕正に対し、「水道溝渠等改良の儀」を示達、神田下水着工の端緒を開く。同年12月、内務卿を辞任し、司法卿兼参議に就任する。以降、法典編纂事業を主導する。・・・<引き続き、1885年から1891年の間、伊藤、黒田、山縣、松方、各内閣で>・・・司法大臣<(初代)を務める。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9

 すなわち、繰り返しになりますが、大久保亡き後は、伊藤ではなく、山縣が、(私見では予定通り、)日本の実質的な最高権力者としての地位を継承したのです。(太田)

(続く)