太田述正コラム#12850(2022.7.3)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その21)>(2022.9.25公開)

 「・・・1882年2月27日、山県は参事院議長就任のため、参謀本部長を辞任せざるを得なかった。
 参事院議長は各官庁に対して公平であらねばならなかったので、当然のことだった。
 しかし同日に山県は参謀本部御用掛に任命されたので、参謀本部や陸軍への影響力を保持した。
 参謀本部長はこのあと約6ヵ月任命されず、9月4日に大山巌陸軍卿が兼任する。

⇒伊藤之雄に限らず、大部分の日本人が誤解しているのですが、アングロサクソン文明及び欧州文明の諸国においては、国制は、即、戦争機構なのであって(コラム#省略)、そのことを(恐らくは、)秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達中の気の利いた人々は例外的に理解していて、もちろん山縣もそうで、彼にとって、戦争機構の中核は陸軍で、その陸軍と一体不可分の司令部が参謀本部なのであって、陸軍省と海軍/海軍省はその直接的な支援国家機構、その他の国家機構は(天皇を含め)間接的な支援国家機構、という位置づけだった、というのが私の見方です。
 だから、私は、陸軍を掌握している山縣が、当時の日本の最高権力者だ、と言っているのです。
 そして、その最高権力者性は、一旦確立してしまえば、陸軍に係るいかなるポストに彼が就いていようと、いや、就かなくなったとしても、基本的には変わらないのです。(太田)

 この約10年後に初期の議会が始まると、伊藤と山県の間には政党への対応をめぐって溝ができるが、この時点では両者の見方は一致していた。
 1882年11月か12月頃、伊藤は「国家の大本確立」するまでは、たとえ「政党と云(いう)も、主義と称するも、党類[党派]を樹立して、人心を分裂せんとするの悪計[悪だくみ]を好まず」という書状を書いている・・・。
 国家の根幹が確立するまでは、という限定つきである点が山県のものと違っているが、自由民権期の政党に否定的である点では、伊藤も山県と同様である。
 1883年4月、山県参事院議長が主導して新聞紙条例<(注27)>を改正し、発行禁止や停止などの弾圧を強化した。

 (注27)「新聞紙条目ヲ廃シ新聞紙条例ヲ定ム(明治8年<(1875年)6月28日>太政官布告第111号)により、従前の新聞紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))(発行許可制、国体誹謗・政法批評禁止、官吏の職務上の情報漏洩の防止などを規定)を「廃更」する形で成立。発行の許可制、持主・社主・編集人・筆者・印刷人の法的責任、騒乱煽起・成法誹毀の論説取締、さらに特別刑罰規定をもうけ、手続違反にたいし初めて行政処分規定をさだめる。・・・
 さらに明治16年(1883年)4月16日に改正・強化され、1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減したという。このために俗に「新聞撲滅法」とも称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%B4%99%E6%9D%A1%E4%BE%8B

 伊藤が憲法調査を終えて日本に戻って、山県と最初に会った際も、「久しぶり回想談拝承、今古の感に耐えず」と旧友との再会を喜び合っている・・・。
 二人の関係は極めて良好だった。・・・
 1885年5月18日、甲申事変<(注28)>の処理が一段落すると、山県は三条実美太政大臣に、参謀本部長は大山陸軍卿の兼任としてほしい、と意思を伝えた・・・。

 (注28)「1884年12月,朝鮮の漢城(現ソウル)において独立党(親日派)が日本の援助で事大党(親清派)から政権を奪取しようとしたクーデタ<であり、>甲申の変ともいう。親日派の金玉均・朴泳孝らは清仏戦争(1884)での清の敗北に乗じて日本軍の援護のもとにクーデタを企てたが,事大党と清国軍の反撃をうけ,2日にして失敗に終わった。翌’85年,日清間に天津条約が結ばれ両国軍隊は朝鮮から撤兵した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B2%E7%94%B3%E4%BA%8B%E5%A4%89-495892

 これからも、山県が参謀本部や陸軍の自立という、あるべき理想を大切にする人間であることがわかる。

⇒意味不明です。(太田)

 その後も、大山は参謀本部長の兼任を引き受けなかった。
 それでも山県は同年8月31日に兼任をやめ、参謀本部次長の川上操六<(注29)>(薩摩)が本部長の事務を処理することになった。

 (注29)1848~1899年。「桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。・・・
 明治17年(1884年)には陸軍卿・大山巌に随行し欧米諸国の兵制を視察する。帰国後の明治18年(1885年)に陸軍少将・参謀本部次長、同19年(1886年)に近衛歩兵第2旅団長を務めた後、同20年(1887年)には再びヨーロッパに渡りドイツで兵学を学ぶ。
 明治21年(1888年)、帰国し同22年(1889年)3月より参謀次長。明治23年(1890年)、陸軍中将に進級。
 明治26年(1893年)から清国に出張の後、設置された大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき日清戦争開戦に大きく関わる。特に、第1軍司令官の山県有朋が、独断専行して清軍に積極攻勢をかけた際には、「おやじ老いたり」と、参謀総長に進言し山県軍司令官の即時解任を提案、勅命により、山県を11月に帰国させることになった。明治28年(1895年)3月には征清総督府参謀長に任命される。・・・
 台湾・仏印・シベリア出張を経て明治31年(1898年)1月に参謀総長に就任。同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌年5月に薨去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%93%8D%E5%85%AD

 同年12月22日、有栖川宮熾仁親王(大将)が参謀本部長に就任し、この問題はようやく解決した。」(190~192、196~197)

⇒桂(1848~1913年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E 前掲
川上、児玉源太郎(1852~1906年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E
と、子飼いの俊秀が育ったので、彼らを通じて陸軍を掌握し続けることができる、と、山縣は考えたのでしょう。
 この3人のうち、川上と児玉が比較的若くして亡くなったのは、山縣にとってはさぞかし痛手だったことでしょうね。(太田)

(続く)