太田述正コラム#12854(2022.7.5)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その23)>(2022.9.27公開)

 「・・・1884年2月から翌年1月にかけ、大山陸軍卿を長とする軍事視察団が欧州へ派遣された。
 同行したのは三浦梧楼<(注32)>中将(長州)・野津道貫<(注33)>(みちつら)少将(薩摩)・川上操六大佐(薩摩)・桂太郎大佐(長州)らである。

 (注32)1847~1926。「長州(萩)藩士五十部吉平の5男。三浦道庵の養子。・・・1863・・・年奇兵隊に入り,第2次長州征討の際は小倉方面に進撃,続いて鳥羽・伏見の戦,北越戦争に参加した。明治3(1870)年木戸孝允の引き立てで兵部省に出仕,4年陸軍大佐。6年陸軍省第3局長。7年政府の台湾出兵に反対,第3局長として武器調達に応じず帰郷を決意したが伊藤博文らに引き止められた。9年広島鎮台司令長官として萩の乱の鎮定に赴き,西南戦争(1877)では征討第3旅団司令長官として出征,熊本,宮崎と転戦し城山(鹿児島市)を陥落させた。この間10年5月木戸の死に見舞われ,薩長の情実打破という遺志を継ぐ覚悟を決める。11年陸軍中将に進み,西部監軍部長。14年開拓使官有物払下げ事件で政府の方針に反対して4将軍による意見書を提出したため翌年陸軍士官学校に左遷された。17年大山巌陸軍卿に随行して欧州出張。18年帰国後,薩長中心の陸軍を教育システムの面から改革すべく意見書を提出したが,19年熊本鎮台司令長官へ左遷され,不満を抱き軍職を去った。 21~25年学習院院長。この間に起きた大隈重信外相の条約改正案に反対,院長の立場を利用して明治天皇に条約改正反対を直接上奏した。23~24年貴族院議員,28年朝鮮駐在公使に任じられ,朝鮮に赴任して閔妃暗殺事件に関与,そのため広島監獄署に収監されたが,広島地方裁判所予審で証拠不十分として免訴となった。31年地租増徴に反対して全国を遊説。43~大正13(1924)年枢密顧問官。・・・元老山県有朋(やまがたありとも)に対抗して政党に接近、・・・大正5年には第1次3党首(政友会・原敬,同志会・加藤高明,国民党・犬養毅)会談を斡旋,また寺内正毅内閣の成立に尽力し,外交調査会設置にも努力した。晩年は政界のいわば黒幕的存在として藩閥政府に対する牽制役をはたす一方,政党内閣の健全な発展に期待するところが多く,大正13年には第2次3党首会談(憲政会・加藤高明,政友会・高橋是清,革新倶楽部・犬養毅)を斡旋し護憲3派内閣(加藤首相)の成立を促した。・・・
 子爵<。>・・・」
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 (注33)1841~1908年。「鹿児島城下高麗町の下級藩士・野津鎮圭の三男として生まれる。・・・薬丸兼義に薬丸自顕流を学ぶ。戊辰戦争に6番小隊長として参加。その活躍がめざましく、鳥羽・伏見の戦いから会津戦争、二本松の戦い、次いで箱館戦争に参戦。
 明治4年(1871年)3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。同年7月、陸軍少佐に任じられ2番大隊付となる。明治5年(1872年)8月、陸軍中佐に昇進し近衛局分課に勤務。陸軍省第2局副長を経て、1874年(明治7年)1月、陸軍大佐に進級し近衛参謀長心得に就任。1876年(明治9年)7月から10月までフィラデルフィア万国博覧会に出張。1877年(明治10年)2月、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。同年5月から8月まで豊後国指揮官を務めた。その後、日本陸軍上層部の一人となる。
 1878年(明治11年)11月、陸軍少将に昇進し陸軍省第2局長に就任。その後、東京鎮台司令長官、同鎮台司令官を歴任。1884年(明治17年)2月から翌年1月まで陸軍卿・大山巌の欧州出張に随行。同年7月、子爵を叙爵し華族となる。1885年(明治18年)2月から4月まで清国に出張。同年5月、陸軍中将に進み広島鎮台司令官に就任。
 1888年(明治21年)5月、第5師団長に親補され、1894年(明治27年)8月、日清戦争に出征。さらに第1軍司令官に転じた。1895年(明治28年)3月、陸軍大将となり、同年8月、伯爵を叙爵。11月、近衛師団長に親補され、東京防禦総督、東部都督、教育総監、軍事参議官を歴任。
 1904年(明治37年)6月、第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。1906年(明治39年)1月、元帥の称号を戴くまでに至る。
 1907年(明治40年)9月21日、侯爵に陞爵して貴族院侯爵議員に就任し、死去するまで在任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B4%A5%E9%81%93%E8%B2%AB

⇒「注32」だけからも、三浦梧楼は、独りよがりで傍若無人な人間であったところ、(自分自身は批判的であったところの)自分の「藩閥」の、木戸孝允に厚遇され、伊藤博文に引き留められ、挙句は山縣あたり(?)に救われて無罪放免されることができたけれど、結局失脚し、政界の黒幕に身をやつさざるを得なかったという印象が得られますし、「注33」だけからも、野津道貫は、誠実で一所懸命な人柄が窺われ、それぞれが子爵と侯爵を受爵していることは、明治・大正期における日本政府を牛耳っていた山縣らの目の確かさを示しているのではないでしょうか。(太田)

 その目的は、欧州、とりわけドイツの軍事および兵制を研究して、日本陸軍の改革をすることであった。
 この視察団は、それまでフランスをモデルにして多くの問題をかかえていた陸軍の制度を、ドイツをモデルとして日本の実情に合うように改革することをめざした。」(201)

⇒山縣が日本の事実上の最高権力者として、欧米を打倒するための中核的手段たる陸軍の強化を図るため、陸軍最強国たるドイツ等に大山らを海外調査に送り出した、ということであるところ、伊藤達を送り出した前回同様、今回もまた、当然のこととして、山縣自身は日本に残ったわけです。(太田)

(続く)