太田述正コラム#12856(2022.7.6)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その24)>(2022.9.28公開)

 「同じ長州出身ながら山県とは仲の悪い三浦を視察団に加えたのは、実力者の伊藤博文が三浦を懐柔しようとしたためである。
 山県も賛成だった。・・・

⇒当然ながら、「実力者の伊藤博文」→「実力者の山縣有朋」、です。(太田)

 山県は大山軍事視察団の調査にすべて任せるようなことをしなかった。
 彼は同郷の後輩である青木周蔵駐独公使(後に外相)を通し、ドイツの軍事ならびに軍政に関する資料を取り寄せ、自らの視点からも検討した・・・。・・・
 大山軍事視察団の選考で、ドイツ人メッケル<(注34)>少佐が1885年3月に来日した。

 (注34)クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel。1842~1906年)。「ドイツはこれに応じ、参謀総長モルトケの推薦により、陸軍大学校の兵学教官のメッケル少佐の派遣を決定し、メッケルは1885年3月に来日した。
 日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。
 メッケルは陸軍大学校で「自分がドイツ軍師団を率いれば、日本軍など楽に撃破出来る」と豪語した。この言葉に学生のひとり根津一は反発し、その後の講義はメッケルと根津の論争の場になってしまった。メッケルは「自分は政府命令で来ているのだ、学生如きの侮辱は許さん」と帰国する勢いであった。仲裁に入った陸軍大学校幹事・岡本兵四郎にメッケルは「根津の如きは到底文明国の参謀に適せず」と述べ、結局根津は諭旨退学となっている。メッケルの豪語は学生を鼓舞するもので民族的偏見によるものではなかったが、帝国主義世界では新興国であるドイツ人と近代化を急いでいた日本人のプライドがぶつかりあったのだった。実際、後に根津はメッケルを評して日本陸軍の恩人とし日清戦争・日露戦争での勝利の要因にメッケルの指導をあげている。
 また児玉源太郎の才覚を高く評価し気にかけており、「児玉は必ず将来日本を荷う人物となるであろう。彼のような英才がもう2、3人あったならば……」と評価していた。
 3年間日本に滞在した後、1888年3月にドイツへ帰国。帰国後はマインツのナッサウ歩兵第2連隊長、参謀本部戦史部長、陸軍大学校教官などを経て1894年に陸軍少将へ昇進し、1895年には参謀本部次長となったが、皇帝ヴィルヘルム2世への受けはよくなく、1896年、・・・授爵が却下され、ポーゼン州グネーゼンの第8歩兵旅団長に左遷される辞令を受けた直後に依願退役。帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には満州軍総参謀長に任命された児玉宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っている。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。
 1906年、ベルリンにて64歳で死去した。退役後に連隊長時代の部下の元妻と結婚し、日本陸軍から派遣されてくる留学生に個人授業を行ったほか、音楽に親しみ、オペラも作曲した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB

 彼は約3年間滞在して、桂・・帰国後少将に昇進<し>・・・陸軍省総務局長・・や川上・・帰国後少将に昇進<し>・・・参謀本部次長・・らに助言を行い、ドイツ風の軍制をもとにした日本陸軍の改革に協力する。

⇒メッケルはもちろんのこと、モルトケも、日本の最高権力者達が、ドイツも含めた欧米勢力の全球的支配を粉砕するために日本の陸軍を中心とする軍事力の強化を図っていることに全く気付かなかったわけです。(太田)

 大山軍事視察団が帰国して約4ヵ月たった1885年5月18日、陸軍は各鎮台を旅団編成から師団(二個旅団)編成に転換するため、鎮台条例を改正した。
 これは1889年までに戦時の陸軍兵力を約2倍の8万人に拡充しようとするものである。
 旅団単位から師団単位に編成を変えることは、大陸での清国や列強との戦争に備える意味があった。
 そのためには、歩兵の増加のみならず、騎兵・砲兵・工兵や輜重兵(輸送部隊)の整備も必要だった。
 <当時、>山県<は、>内務卿兼参謀本部長<だった。>・・・
 鎮台条例の改正と同じ日、監軍本部条例も改正された。
 これは全国に東部・中部・西部の三つの監軍部を置き、各監軍は天皇に直属し、平時は軍隊検閲等を担当、戦時には軍団長として二個師団を率いて戦う、等という内容だった。・・・
明治天皇は1884年から85年夏にかけて、病気を理由に表の御座所に出御しなかったり、出御しても午前中2時間ほどのみで、大臣・参議などとも積極的に会おうとしなかったりした。
 これは天皇の政務サボタージュである・・・。<(注35)>

 (注35)「青年期(とりわけ明治10年代:1877-1886年)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しよう(親政)と積極的であった時期がある。
 ・・・天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。
 「教育に関しては、儒学を基本にすべし」とする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。
 こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝達することで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87

 監軍任命などの天皇の意志が伊藤らに無視されて、天皇が伊藤らに対して疑心暗鬼を強めたからだった。
 しかし伊藤の忠言を受けて、まもなく明治天皇は、再び政務に意欲を示し始める・・・。」(201~203、205)

⇒どうして、軍制を含めた国制全般を欧米化しなければならないか、を的確に明治天皇に説明するためには、同天皇をまず、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者、へと回心させる必要があるところ、それが不可能であるとの諦めの境地であったと想像される山縣は、同天皇の顔も見たくない心境であって、同天皇に直接「説教」する気になど到底ならず、その「雑事」を、天皇同様、上記コンセンサス信奉者ではなかった伊藤に、キミ、適当にやってくれ、と、ぶん投げたのでしょう。(太田)

(続く)