太田述正コラム#12882(2022.7.19)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その37)>(2022.10.11公開)

 「山県系官僚閥は、大隈内閣(政党内閣)が成立すると、山県の腹心の平田東助<(コラム#12722)>枢密院書記官長を中心に、貴族院勢力をまとめる動きを開始する。
 1898年(明治31)10月初めには、貴族院の反政党の空気を利用し、過半数を掌握した。
 こうして、第13通常議会での倒閣の準備は整った。
 しかし、山県系官僚閥が積極的に動くより先に、大隈内閣を支える憲政党内で、旧進歩党系と旧自由党系の間の抗争が激しくなり、内閣は10月末にほとんど成果を挙げることなく崩壊した。
 大隈内閣が、次官・局長・知事など中央の高級官僚だけでも42人にも及ぶ就官を行っただけで、内紛により短期間で斃れたことで、藩閥勢力内には政党への反感がますます高まった。
 それは、毅然と一貫して政党に対決姿勢を示していた山県への期待となった。
 天皇の下問に対し、黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巌の四元老は、清国漫遊中の伊藤の帰国を待つことなく、速やかに山県に組閣を命じるべきであるという趣旨の奉答を行った。

⇒近場の清国を「漫遊中」だった伊藤が呼び戻されないまま次期首相が決まったというのですから、首相の地位の軽さと伊藤の浮き上がった状態の双方が透けて見て取れます。(太田)

 こうして11月5日、山県は天皇から組閣の命を受け、8日、第二次山県内閣の組閣を完了した。・・・
 新内閣は、山県首相の他、松方が蔵相、西郷従道が内相と元老が主要閣僚を固め、他を桂陸相・清浦圭吾法相・曾禰荒助<(注53)>農商相・芳川顕正<(注54)>逓相らの山県系官僚や、青木周蔵<(注55)>外相(長州)・山本権兵衛海相(薩摩)らの藩閥官僚で占め、政党からの入閣はなかった。

 (注53)あらすけ(1849~1910)。「<長州>藩の家老の宍戸氏の出身で、宍戸潤平の三男として生まれた。・・・曾禰詳蔵高尚の養子となり、曾禰姓を名乗るようになった。
 [藩校明倫校に学ぶ。]
 17歳ながら家老格の家柄のおかげで長州藩兵の小隊長として戊辰戦争初期に従軍した。明治維新後、明治元年(1868年)、明治政府に出仕を命じられ、降兵取締に任じられた。[大阪兵学寮幼年学舎に入学,]明治5年(1872年)、フランス留学を命じられて5年後に帰国。明治12年(1879年)、陸軍省勤務。翌年から陸軍士官学校勤務を兼ねた。
 明治14年(1881年)に太政官書記官に転じ、明治19年(1886年)4月に内閣記録局長、明治23年(1890年)に初代衆議院書記官長に任命された。この任を2期務めた後、第1次松方内閣の解散に伴って衆議院選挙に出て、山口4区から初当選を果たした。会派は品川弥二郎が主宰した国民協会に属したが、明治26年(1893年)に駐フランス全権公使に任じられた。・・・
 フランス公使時代は公使館の一室に籠って、交際も何もせず、朝から晩まで花牌を引いてばかりいたため「花牌公使」とあだ名された。・・・
 明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣が発足すると司法大臣に就任。以後、[山県有朋内閣の]農商務大臣、[第1次桂太郎内閣の]大蔵大臣、外務大臣等を歴任。特に日露戦争時は、外債の不足に苦慮したが、大蔵大臣として大任を果たした。
 明治40年(1907年)に初代統監府副統監として伊藤博文を補佐し、伊藤の退任後に韓国統監となった。曾禰は韓国併合反対論者<だったが、>・・・結局、山縣・桂に押し切られる形で「適当ノ時機」に韓国併合を断行する閣議決定(7月6日)に同意した。伊藤暗殺事件の直後から韓国併合を進めて、明治43年(1910年)、胃癌により同職を辞したが、併合の完成を病床で聞き薨去。・・・
 外交・内政・財政さらには韓国問題まで幅広くこなした万能政治家であったものの、二流政客と称され、長州閥の実力者に肩を並べるには至らなかった。このことから「器用貧乏」ともあだ名された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9-1086135 ([]内)
 (注54)1842~1920年。「旧徳島藩士から維新後新政府に入る。明治5年(1872年)に大蔵省紙幣頭、同15年(1882年)に東京府知事に就任する。
 山縣有朋の側近として知られ、明治23年(1890年)に第1次山縣内閣で文部大臣に就任した。この際明治天皇は、「芳川には人気がない」として、就任に難色を示したが、山縣が説明を行って就任にこぎつけている。天皇は文相任命にさいして徳教にかんする箴言の編纂を命じた(教育勅語の起案、具体化)。在任中に教育勅語の発布に尽力した。明治24年(1891年)、第1次松方内閣でも文相に留任。退任後に宮中顧問官となった。
 明治26年(1893年)、第2次伊藤内閣で司法大臣に就任。続く第2次松方内閣では8日間の間留任し、清浦奎吾に跡を譲った。間の明治27年(1894年)に文部大臣を臨時兼任。明治29年(1896年)には内務大臣も兼任した。
 明治31年(1898年)、第3次伊藤内閣で内務大臣に再び就任。次いで第2次山縣内閣で逓信大臣に就任。この年、子爵に叙爵されている。1900年(明治33年)11月28日、貴族院子爵議員の補欠選挙に当選した。
 明治34年(1901年)、第1次桂内閣で再び逓信大臣に就任。その後の改造で一旦政府を去るが、明治37年(1904年)には内務大臣として内閣に復帰。・・・同年9月21日、伯爵に陞爵したため貴族院子爵互選議員を失職する。大正元年(1912年)には枢密院副議長に就任する<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E5%B7%9D%E9%A1%95%E6%AD%A3
 (注55)1844~1914年。「長州藩の村医・三浦玄仲と妻・友子の長男として生まれ、22歳の時に・・・青木研藏の養子となって士族となり、・・・研藏の娘・テルと結婚する。
 明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て1868年(明治元年)、藩留学生として、土佐藩士・萩原三圭と共にドイツへ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが、来独中の山縣有朋に談判して解決させた。・・・
 1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年(明治8年)にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。翌年にエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った。この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた。・・・
 娘のハンナ(日本名は花子)は、プロイセン・シュレージェン(現・シレジア)にあるトラッヘンベルク(Trachenberg)の領主の次男で駐日ドイツ公使館の主任外交官補として勤務していたアレクサンダー・フォン・ハッツフェルト伯爵と1904年12月19日に東京で結婚し、夫婦の間に一人娘・ヒサが生まれる。ヒサはナポレオン戦争期に活躍したアダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵の曾孫であるエルヴィンと結婚し、その子孫はドイツ、オーストリア、イギリスに健在している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%91%A8%E8%94%B5

⇒本題を外れますが、青木の妻の取り換え騒動の話を初めて知ったところ、未婚だった森鴎外の滞独中の恋人の斬り捨てと比較し、青木は立派だったと思います。(太田)

 また山県系官僚の平田東助(前枢密院書記官長)が、法制局長官となって内閣の方針の原案を作るなど、山県の側近として桂や清浦と並んで重要な役割を果たした。
 これらの山県系官僚派、桂のような長州出身者もいたが、他地域の出身者も多く、政党の台頭に反発して山県の下に集まった者たちであった。」(305~306)

(続く)