太田述正コラム#12888(2022.7.22)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その40)>(2022.10.14公開)

 「・・・自信をつけた山県は、1899年(明治32)3月28日、星<(注61)>・憲政党に相談することなく、内閣として文官任用令<(注62)>の改正と文官分限令の制定を行った。

 (注61)星亨(ほしとおる。1850~1901年)。「江戸の左官屋・・・の子として生まれる。<母が医師と再婚。>・・・当初は医学を志していた。しかし、英学に転向し、横浜の高島学校やヘボン塾(現明治学院大学)の元で英学を学んだ。後に江戸幕府御家人・小泉家の養子になり、武士となった。英語教師としても身を立てる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%A8
 「維新後陸奥宗光(むつむねみつ)に認められて政府に登用される。1874年(明治7)横浜税関長時代、イギリス領事館との文書中に「女帝」と「女王陛下」の訳語をめぐる事件でイギリス公使パークスと争い解任される。同年政府命でイギリス留学、日本人初のバリスター・アット・ロー(イギリス法廷弁護士)を取得。帰国後、司法省付属代言人(後の弁護士)第一号となる。1882年自由党に入党、福島事件の河野広中を弁護する。1884年官吏侮辱罪で服役中、自由党解党にあい獄中から反対。同年出獄後、5月『自由燈(じゆうのともしび)』創刊。1887年大阪事件公判で大井憲太郎(おおいけんたろう)を弁護し、同年10月三大事件建白運動を推進。翌1888年出版条例違反などの罪で下獄するが、1889年憲法発布大赦で出獄後欧米に遊学。翌1890年帰国後、立憲自由党に入党し、1892年第2回衆議院総選挙で当選。第三議会で第2代衆議院議長となる。議長不信任案可決を認めず議員を除名される。翌1893年総選挙で再選され自由党に復帰。このころより「押し通る」と異名をとり、藩閥・官僚と政党との提携を画策。1900年(明治33)伊藤博文を担いで立憲政友会を結成し、第四次伊藤内閣の逓相となり政界の実力者にのし上がる。民権期以来、改進党の牙城であった東京市政を三多摩壮士を手兵に牛耳り、1901年市会議長となるが、同年6月21日、教育家の伊庭想太郎(いばそうたろう)(1851―1903)に市庁参事会室内で刺殺された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%9F%E4%BA%A8-133000
 「伊庭想太郎<は、>・・・江戸出身。・・・私塾で心形刀流の剣術をおしえ,東京農学校校長,日本貯蓄銀行頭取をつとめる。明治34年東京市教育会の結成にくわわるが,会長星亨の言動に憤慨し,結成5日後に刺殺した。無期徒刑となり・・・獄中で病死。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E5%BA%AD%E6%83%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E-1056108
 (注62)「1893年文官任用令の制定により,奏任官は文官高等試験(高文)の合格者から任用される原則が確立され,官吏のリクルートの制度化がなされた。・・・1899年第2次山県有朋内閣における文官任用令改正により,勅任官の自由任用は廃止され親任官以外の勅任官は原則として一定の有資格者に限定され,同時に文官分限令制定により文官の身分保障制が確立された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%AE%98%E4%BB%BB%E7%94%A8%E4%BB%A4-128381
 「それまでの帝国大学法科大学卒業生の無試験任用の特典は廃止された。この試験は毎年1回満20歳以上の男子を有資格者として東京で行われ,本試験は憲法など6種の法律必修科目と選択科目による筆記試験および口述試験であった。出題は,行政官と大学教授とから成る文官高等試験委員が担当した。・・・これは主としてプロイセンの制度にならったものであ<る。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%96%87-497339
 「高等試験は予備試験と本試験に分かれ(年1回東京で実施),帝国大学法科大学卒業生等は予備試験を免除された。外交官および司法官の試験は別であったが,1918年(大正7)の高等試験令などによって統合・整理され,行政・外交・司法各科の試験が年1回実施された。1948年,国家公務員法に基づく各種国家公務員試験の実施により廃止された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%AE%98%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%A9%A6%E9%A8%93-1409902
 「<ちなみに、>」86年高等官官等俸給令制定により,高等官は勅任官(次官,局長級)と奏任官(課長級以下)に分けられ,勅任官の中に親任官(内閣総理大臣,国務大臣,枢密院正副議長,枢密顧問官,内大臣,宮内大臣,特命全権大使,陸海軍大将,大審院長,検事総長,会計検査院長など)が設けられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%85%E4%BB%BB%E5%AE%98-569368#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 
 「文官任用令<は、>・・・第1次山本権兵衛内閣が・・・再び全部改正し・・・(大正2<(1913)>年8月1日勅令第261号)<、>勅任官の特別任用の任用条件を拡大した。この改正で各省次官、法制局長官、警視総監等は資格がなくとも特別任用が出来ることとなり、一般の有能な人材を登用する道を開いた。これは当時護憲運動が活発化し政党の影響力が強くなっていたことから、山本内閣が政党への配慮を示したものである。・・・1946年(昭和21年)4月1日勅令第194号により廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%98%E4%BB%BB%E7%94%A8%E4%BB%A4

 この結果、各省次官・局長・知事などの勅任官は、従来は、文官高等試験に合格しているなどの資格がいらず自由任用できたが、それができなくなった。
 自由任用ポストとして残されたのは、内閣書記官長(現在の内閣官房長官に近い、ただし官房長官は閣僚)と各大臣秘書官のみになった。
 また、官吏を政治的に免官することを困難にした。
 これは、山県や山県系官僚および西郷従道内相など薩摩藩の有力者たちが、政党の官僚進出を防ごうとした動きであった。・・・
 <もっとも、>伊藤<も星も、>・・・ここまで厳しい自由任用排除は好ましくないと思っていたようである<が、>・・・勅任官の自由任用を規制すべきとは考えていた<ようだ。>」(312~313)

⇒単に、事実上の最高権力者である山縣が方針を決め、それに政府内外の有力者達が従った、ということでしょう。
 なお、これは、第2次山縣内閣の時のことではありませんが、行政・外交・司法の試験が一本化されなかった理由、掛け持ち受験が許されたのか、3つの掛け持ち受験も許されたのか、どうして、行政試験合格者が各省に振り分けられて振り分けられた先で人事管理されるようになった理由、を知りたいところです。(太田)

(続く)