太田述正コラム#12890(2022.7.23)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その41)>(2022.10.15公開)

 「・・・山県内閣成立直前に駐韓ロシア公使となったパブロフは、(マサンポ)や木浦(モクポ)などのような朝鮮半島南岸の良港に、ロシアの勢力を伸ばそうと活動を始めた。
 翌1899年5月、ロシア海軍は馬山浦に自らの拠点となる土地を得ようとする。<(注62)>

 (注62)馬山浦事件(まさんほじけん)。「すでに日清修好条規以下の通商条約によって釜山・仁川・元山が開港されており、漢城府近郊の龍山にも日本人街が形成され、「日本租界」と称されていた。また、1897年には、平壌郊外の鎮南浦と全羅南道の木浦に共同租界が設置された。・・・
 1899年4月、ロシアのパ<ブ>ロフ駐韓公使が軍艦で馬山浦に入港し、東洋汽船会社の杭を要地一帯に打ち込み、大韓帝国政府に対し馬山浦割譲を求めたのであった。韓国の朴斉純外部大臣は駐露公使の林董に連絡し、日本政府は陸軍参謀本部の資金を、釜山在住の日本商人(民間人)の名義を用いて周辺の土地買収をおこなった。こうして、1899年から翌1900年にかけて双方が争って買収合戦の様相を呈し、結局、ロシアによる単独租界の設置および軍港築港計画は頓挫した。しかし、この・・・馬山浦事件・・・を経たことによって馬山は朝鮮半島第5の開港地となった。
 その後・・・馬山には日本人租界のほか、日露戦争まではロシア租界も<設けられ>た。・・・1914年に開港地付近を管轄する府制に基づく馬山府が設置され、商業の中心として発展した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%B1%B1%E6%B5%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 パブロフは帝国主義の時代の基準から見ても、押しが強く陰謀好きの人間だった。
 この動きは、西–ローゼン協定<(前出)>を無視した行動である。・・・
 元老伊藤は、山県ほど危機感は持っておいらず、12月に山県は対露政策をめぐる伊藤との対立を自覚するようになった・・・。
 ところで、パブロフ駐韓公使の動きは、パブロフの個性によるところが多く、ロシア政府に常に一貫した南下政策<(注63)>があったわけではない。

 (注63)南下政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B8%8B%E6%94%BF%E7%AD%96
≒Russian southward expansion≒Russia Expansion to the Sea
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845763325326976
https://worldgeographylabmanual.pressbooks.com/chapter/3-1/

⇒ロシアの「南下政策」なるものは、日本特有の概念であり、「注63」からも分かるように、その英訳が定かではないことから、この概念を使わない方がよさそうです。
 私としては、(これも余り欧米では使われない概念ではあるけれど、)ロシア膨張主義(Russian Expansionism)という概念を推したいところです。
 その原因として、「18世紀以降海洋進出に乗り出したロシアは広大な面積を有するものの、ユーラシア大陸の北部に偏って存在するため、国土の大部分が高緯度に位置し、黒海・日本海沿岸やムルマンスク地区、カリーニングラード(旧ケーニヒスベルク。なおカリーニングラード州がロシア領となったのは第二次世界大戦後のことである。)等を除き、冬季には多くの港湾が結氷する。そのため、政治経済上ないし軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、歴史的には幾度となく南下政策を推進してきた。ロシアの国土は、冬が長く、寒冷・多雪などといった現象をもたらし、一部を除けば農業生産は必ずしも高くない。ここでは高い密度の人口を支えることが困難であり、人々はよりよい環境を求めて未開発の周辺地域に移ろうと努める。なかでも、より温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがある。一方、ロシア人は概して政治的権力による統制を極度に嫌うアナーキーな傾向をもち、このようなロシア人気質はこうした膨張主義を助長している。ロシアの人々は国家からの介入を嫌い、辺境へ、権力の外側へと向かおうとするのであるが、権力の側もむしろこれを利用して、人々が苦労して入植して開墾した土地に後から追いつき、その政治力・軍事力を用いて労せず入手するということが繰り返されてきた。これは、第三者からみれば、官民一体の南進運動であるかのように映り、それゆえロシア国外の人々からすれば強い警戒感を免れないものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B8%8B%E6%94%BF%E7%AD%96 前掲
のような説明がなされることが通例です(注64)が、私は、かねてより、モンゴルの軛症候群説を唱えてきているわけです。(コラム#省略)

 (注64)これに加えて、冷戦時代以降は、’airbases in the United Kingdom, Norway, Iceland, and Greenland gave NATO air superiority which would, in the event of a conflict, enable the alliance to block Russian access to the Atlantic ocean through the strategic GIUK Gap.’
https://globalsecurityreview.com/russian-expansionism-consequence-geography/
という、ロシアが大西洋空域に空軍力を展開する困難性も指摘されるようになっている。 

 いずれにせよ、それを「南下政策」と呼ぼうが「膨張主義」と呼ぼうが、ロシア政府もロシア国民も「常に一貫し」て南下ないし膨張をしようとしてきたのです。(太田)

 しかし、遅くとも1899年晩秋から冬にかけて、藩閥勢力内にロシアへの普請から、山県のような場合によれば日露戦争も覚悟するような新しい路線が生まれ、これまでの日露協商路線を取る伊藤らとの間に対立が生じ始めた。」(314~315)

⇒この頃には、伊藤は、ロシアを主敵視するところの、横井小楠コンセンサス信奉者、としての擬態さえかなぐり捨て、山縣に対して、ことあるごとに難癖を付けて蟷螂之斧的抵抗を続けていた、というのが私の見方です。(太田)

(続く)