太田述正コラム#12896(2022.7.26)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その44)>(2022.10.18公開)

 「・・・組閣して以来1年半あまり経ち、二度の議会を無事終えて、山県は当面の課題をすべてやり遂げてしまった。
 体調は特に悪くないが、そろそろ辞め時だ、と考えたようである。・・・
 山県の後継問題は、天皇と元老の間で論議されるが、義和団の乱が激化し、清国情勢が切迫したので、6月15日、天皇は山県に留任を命じ、翌日山県もしばらく留任することに同意した。
 山県の後継首相問題が・・・こじれたのは、台頭してきた政党勢力への対応をめぐって、元老の最有力者である伊藤・山県2人の間の溝が拡大していたからである。
 前年4月から、伊藤は新党を組織する準備をしていた。
 山県は伊藤の準備が整うまえに政権を譲り、第四次伊藤内閣と新党を失敗させようと目論んだのだろう。・・・

⇒理由は繰り返しませんが、山縣もとんだ言いがかりを伊藤之雄につけられたものです。(太田)

 1900(明治33)10月19日、第四次伊藤博文内閣が成立した。
 首相を含め8人の閣僚が政友会員で、桂太郎陸相・山本権兵衛海相と外相の3人のみ政党員でなかった。
 政党出身者は星亨逓信大臣ら3人(いずれも旧憲政党)、伊藤系官僚は班列大臣(現在の無任所大臣)の西園寺公望ら4人だった。・・・

⇒西園寺は、伊藤系官僚ではないのであって、まず、「伊藤系」ではなく山縣系であって、事実上、立憲政友会を牛耳っていて事実上の副首相として入閣していて・・途中、同内閣の臨時代理を務めている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC4%E6%AC%A1%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
、かつまた、「官僚」ではなく旧公家代表であることはお分かりのことと思います。
 そして、桂は山縣の子飼いですし、山本権兵衛は、辞めた山縣が自分の内閣で海軍大臣に初登用し、そのまま伊藤内閣でも留任したもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B
です。
 更に、この時初めて(外相として)入閣した加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿であるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E
岩崎は、西南戦争の時に岩崎率いる三菱が「社船38隻を軍事輸送に注ぎ込み・・・、政府軍の勝利に大きく貢献した」時に事実上の政府軍総司令官であった山縣有朋
https://wheatbaku.exblog.jp/32366442/
と、肝胆相照らす間柄になった、と私は考えており、この岩崎が、加藤を山縣に売り込み、加藤が伊藤とは違って対露強硬論者であった
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E-15722
ことも勘案して山縣が西園寺を通じて伊藤に加藤を外相に起用させた、と見ています。
 要するに、第四次伊藤内閣は、ナンバーツーと対外政策関係3閣僚が山縣と志を同じくする者達で構成されていたところの、山縣の傀儡内閣だった、というのが私の見解なのです。(太田)

 伊藤は・・・政友会創設直後に・・・意図に反して組閣せざるを得なかったために、準備不十分で、・・・その最大の問題は、内閣や政友会の財政方針が固まらない中で、渡辺邦武<(注69)>(くにたけ)(第二次伊藤内閣の蔵相、伊藤系官僚)を蔵相にしたことである。

 (注69)1846~1919年。「諏訪高島藩士の家に生まれた。・・・1868年(明治元年)、京都御所の警備のため藩主諏訪忠礼に従い上洛する。たまたま渡辺が門の警衛に当たっていたときに、大久保利通が鑑札無しで御所に入ろうとしたことを拒否したことが機縁となり、その職務忠実ぶりで目をかけられるようになる。
 1871年(明治4年)、廃藩置県の後、伊那県出仕となる。大久保は当時伊那県知事で同郷の永山盛輝を通じ、千秋・国武兄弟を東京に呼び出して民部省勤務とする。1873年(明治7年)大蔵省租税寮7等、ついで6等出仕となる。渡辺は大蔵卿大隈重信、租税頭松方正義、地租改正局総裁の大久保の下、地租改正に取り組む。・・・
 <一時失脚していたが、福岡県令を経て>1882年(明治15年)に松方によって大蔵省に戻り、調査局長、1886年(明治19年)主計局長を経て、1888年(明治21年)大蔵次官に就任する。
 1892年(明治25年)、品川弥二郎内相による選挙大干渉によって第1次松方内閣は総辞職した。その後を襲って第2次伊藤内閣が成立する。伊藤博文首相は、組閣に当たり維新の元勲の総出で内閣を組織したが、大蔵大臣には松方前首相の就任が有力視される中、下馬評を覆す形で渡辺が起用された。同年11月、第4帝国議会に政府は予算案を提出する。総選挙に勝利した野党は予算案に反対し、軍艦新造費全額削減と予算案の11パーセント減額修正を求め対立する。このときは明治天皇が6年間御内帑金30万円を下賜し建艦費に充てるという和協の詔勅を発布されたため、政府野党ともに矛を収めた。
 1900年(明治33年)、伊藤博文が立憲政友会を結成すると、渡辺は政友会創立委員としてこれを助けた。同年、第4次伊藤内閣の蔵相に就任する。渡辺は緊縮財政のため、官業中止、事業の延期、酒税、砂糖税増税を実施しようとする。衆議院は大隈重信の憲政本党の賛成で通過するが、貴族院の反対にあい、明治天皇の詔勅で危機を脱した。しかし、明治34年度および明治35年度予算案編成に当たり、緊縮財政を主張して現在行われているものも含めた全ての公債発行事業の停止を提案した。政府・政友会は緊縮予算の必要性については認めていたが、そのために地方から政友会の代議士に寄せられていた陳情を星亨と原敬が必死に押し留めて、当時行われていた公債発行事業の完成を優先するという党内合意を取り付けた直後というタイミングだった。
 これに対しては旧憲政党系閣僚だけではなく、西園寺公望や金子堅太郎、末松謙澄ら官僚系閣僚からも非難を受けて閣内で孤立した。こうして、第4次伊藤内閣は閣内不統一で総辞職することとなった。このとき渡辺は辞表<の>奉呈を拒否し、伊藤に辞表撤回を求めたが衆寡敵せず、内閣総辞職後に諭旨免官となった。
 閣内不統一を引き起こしながら、辞表を拒否したことで渡辺は失脚し、事実上政界引退を余儀なくされた。それでも欧米を外遊後、日露戦争前後では対露強硬論を主張、戦争後もポーツマス条約反対を主張した。・・・
 渡辺は生涯独身を通し、兄・千秋の三男・千冬を養子に迎えた。千冬は衆議院議員、貴族院議員、司法大臣を歴任している。ちなみに、孫・武は初代財務官を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%9B%BD%E6%AD%A6

 当初伊藤は、元老の井上馨を蔵相にしようと考えていたが、渡辺が脱党の意すら示したので、渡辺を蔵相にした。
 政友会創立直後に最高幹部から脱党者を出したくなかったのである。・・・
 <その>渡辺の<緊縮>方針は多くの党員の希望に反していた。・・・
 結局、この閣内対立が直接の原因となって、伊藤は天皇に辞表を提出し、5月10日に裁可される。・・・
 この間、4月9日に伊藤は、山縣に対して・・・協力を求めたが、山県は積極的に応じなかった。
 そこで、伊藤は・・・4月11日、山県の他、井上・松方の出席を求めて会合を開いた<が>・・・誰も積極的に協力を申し出なかった。・・・

⇒伊藤がもはや絶望的なまでに元老クラスの中で孤立してしまっていたことが見て取れます。(太田)

 結局、25日の元老会議で、桂太郎大将が後継首相に推薦され、6月2日に第一次桂内閣が成立した・・・
 山県<が>桂を後継首相にすべく、慎重に誘導した、というのが真相だろう。

⇒いや、慎重どころか、隠れ薩摩閥の山縣が、「注69」からも分かるように、薩摩閥の大久保と松方によって引き立てられてきたところの渡辺、を強引に蔵相として送り込み、第四次伊藤内閣を早期に瓦解させ、桂を首相に据えた、と見るべきでしょう。
 渡辺は3回大蔵大臣を務めていますが、1回目は松方から引き継ぎ松方に返し、2回目も同様で、3回目には松方から引き継ぎ、(山縣の「後継者」たる)西園寺公望に渡していることからもこのことが透けて見えてきます。
 それに、引退後の渡辺の対露強硬論ぶりからも、渡辺が大久保らに感化されて(伊藤とは本来相容れない)秀吉流日蓮主義者になっていたことも見て取れるところです。(上掲) 

 さらに桂は、首相になれば現役の陸軍軍人を退き予備役になるのが決まりであったが、天皇の特旨で、現役の陸軍大将のまま首相に就任した。
 これは、山県が中将として現役のまま第一次内閣を作った時と同様の好待遇であった。・・・
 桂内閣は、小村寿太郎を外相とし、山県系の閣僚が10人中7人を占めるという山県系色の強い内閣だった。
 政友会最高幹部の原敬は日記に、「山県、伊藤両系の懸隔・・・は是にて益々判明となる」と記している・・・。」(324~329)

(続く)