太田述正コラム#12898(2022.7.27)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その45)>(2022.10.19公開)

 「・・・山県系官僚を中心とする桂内閣ができたことで、伊藤の推進する日露協商路線の可能性が弱まり、山県らの求める日英同盟から対露強硬路線の可能性が強まった。
 この間、1901年1月、北清事変の終結のため、列強と清国の間で北京議定書<(注70)」>が調印され、ロシアを含め列強は北京周辺から撤兵するが、ロシアは満州に駐兵し続けていた。<(注71)>

 (注70)いわゆる、Boxer Protocol。「公使館周辺区域の警察権を列強国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列強国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列強国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。この状況は第二次世界大戦の終了まで事実上維持された。・・・
 賠償金4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という額は、年間予算1億両足らずであった当時の清朝には、まさに天文学的な要求であった。さらにその賠償金の支払い源も海関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されていた。
 その後、清朝はこの支払いを履行したが、莫大な拠出はその後の改革(光緒新政)の施策を限定せざるを得ないこととなり、かつ侵略を防ぐためとして投資対象が軍備優先となったために、北洋軍の総帥である袁世凱の権勢をさらに増大させることとなった。また、改革遂行のためにさらに列強国や外国資本銀行の借款に頼り、外国への依存を更に強めることとなった。民衆へは税の増額という形で負担がのしかかり、さらに困窮にあえぐこととなり、清朝への不満が高まった。賠償金は1912年に清朝が滅亡した後も、清朝を引き継いだ国家とみなされた中華民国にそのまま負わされ、中央政権が軟弱な基盤しか持ちえなかった理由の一つとなった。
 列強国も清朝や中華民国が賠償によって苦しむ姿を見て、国際社会の批判や自国の中国権益減少を恐れ、第一次世界大戦前後から賠償金の緩和をたびたび行った。特に20世紀初頭に中国接近の度を強めていたアメリカは、1908年に条件付きの減額に応じ、その減額分を米国に向けた留学生援助として、北京での留学予備校の設置と経営に充当させた。これが現在も北京にある清華大学である。
 結局1938年までに6億5千万両が列強国に支払われ、ようやく賠償は終了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
 (注71)「1901年・・・3月12日、ロシアのラムスドルフ外相は最終案と称する修正案を楊儒に手交し、3月26日までを期限としてそれまでに調印しなければ満洲占領地は返還せず、以後、自由行動をとると通告した。これについては、清国内部でも、義和団事件講和会議に影響が出ないよう、ロシアに少し譲歩してでも早く調印すべきという李鴻章や慶親王の考えと、義和団の乱に際して「東南互保」を実現した張之洞(湖広総督)・劉坤一(両江総督)らの反対意見に分かれた。張之洞は3月19日、英・日・米・独の4カ国に依頼し、調印の延期をロシアに勧告してもらうと同時に、その見返りとして全満洲を開放するという意見を軍機処に提案、賛成した劉坤一とともに連名で上奏した。清国政府は、この提案にしたがい、各国の駐清公使にロシアには内密で調印延期の調停を依頼し、その交換条件として満洲還付後の通商章程協議とそこにおける利益均霑について各国政府へ伝えるよう要請した。なお、張と劉の満洲開放論はその後、清国内では力を失っていくが、日本の近衛<篤>麿はこれに強く触発され、洋行の際にも清国に立ち寄って劉坤一と張之洞に面会して彼らと深い関係を結び、みずからも独自の満洲開放論を展開して日本国内で宣伝したのみならず、清国へに対してもこれを清国の内政改革のモデルケースとするよう働きかけるなど積極的に活動した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E9%82%84%E4%BB%98%E6%9D%A1%E7%B4%84

⇒こういった時にも、近衛篤麿が、独自のアジア主義的民間外交を行っていたことが興味深く、「注71」を紹介した次第です。(太田)

 これに対抗し、桂内閣は、山県・松方・西郷従道ら元老の協力を得て、1902年1月30日、日英同盟<(注72)>協約に調印した。・・・

 (注72)「日英提携の模索は、1901年7月15日、イギリスに帰国中のクロード・マクドナルド駐日公使が日本の林董駐英公使に対し、恒久的な日英同盟について打診したことから始まっており、7月31日、林はイギリス外相ランズダウン卿と協議に入っている。一方、伊藤は日英交渉中の9月、日露提携の可能性をさぐって露都サンクトペテルブルクに向かったが、イギリスはこれを伊藤が君主からの密命によって動いているのではないかとの疑念をいだき、逆に日本との同盟締結を急いだ。これに対し、満韓交換交渉を眼目とする伊藤の対露交渉は、ロシア側の強気の姿勢もあって難航した。11月6日、ランズダウン外相は林公使に日英同盟の原案を示した。桂首相は、この件については慎重を期し、明治天皇も日露協商派の伊藤らを含む元老の一致を裁可の条件としたため、最終的には伊藤の意見開示を待って同盟決定がなされた。
 日英同盟交渉は秘密裡に進められ、年の明けた1902年1月30日、日本の林董公使とイギリスのランズダウン外相はロンドンで日英同盟に調印した。2月12日、栗野慎一郎駐露公使がロシアのウラジーミル・ラムスドルフ外務大臣に対し、成立なった日英同盟の条約文を示したところ、ラムスドルフ外相は驚愕の表情を浮かべ、また、条約中に戦争に関する条項があるのは穏やかならず、極めて遺憾であると述べた。日英同盟がロシア外交当局にとって衝撃的であり、かつ、これによりロシアの行動を抑止する力を持ちえたことは間違いなく、これより約2か月後の4月8日に露清両国によって還付条約が調印されるに至ったことは、その影響が決して小さいものではなかったことを指し示している。」(上掲)

 日英同盟を締結すると、同盟の圧力もあり、1902年(明治35)4月8日にロシアは満州からの撤兵に関する露清条約<(注73)>を結んだ。

 (注73)満洲還付条約。「従来、露清交渉を担当してきたのは、しばしば親露的とみられていた北洋大臣の李鴻章であったが、彼は1901年11月に死去し、代わって折衝にあたった慶親王は、小村寿太郎外相ほか日本の外交筋から多くの情報やアドバイスを受けた。ロシア軍の満洲撤退は、この条約にもとづいて実行されることになったが、ロシアは果たしてこれらの規定をどの程度遵守するかが日本をふくむ列強の大きな関心事となった。」(上掲)
 1838~1917年。「乾隆帝の曾孫で咸豊帝は又従兄に当たる。・・・1900年・・・の義和団の乱に際しては、西太后が太原に避難しても北京に留まり、李鴻章と共に各国との和平交渉を行った(最終議定書が北京議定書)。・・・1901年・・・、和平交渉での列強諸国の要求を容れる形で総理各国事務衙門は外務部に改められた。外務部の位置付けは「六部より上」とされ、その総理部事には奕劻が横滑りした。・・・1904年・・・、日露戦争が勃発すると、・・・ロシアと清が結んだ露清密約を暴露して破棄。・・・1905年・・・、日本の外相・小村寿太郎と満州善後条約を締結。・・・1911年5月・・・に軍機処を廃止して内閣制に移行すると、初代の内閣総理大臣として慶親王内閣を組閣した。・・・同年・・・10月10日・・・に武昌起義が起こると、・・・11月16日・・・には慶親王内閣は瓦解した。後継総理には失脚していた袁世凱を呼び戻し、・・・後に袁世凱と共に、隆裕太后に宣統帝の退位を勧めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E5%A5%95%E5%8A%BB

 こうして、ロシアは同年10月以降、半年ごとの三段階を経て撤兵することになった。
 ロシアは1回目の撤兵は実施したが、1903年4月8日からの第2期撤兵は実行せず、清国政府に対し、満州における清国の行政権を制限する等の新しい要求を行った。
 また5月に入ると、満州と韓国の国境となっている鴨緑江の韓国側河口にあたる地点で土地を買収するなど、韓国内で拠点を新たに設定しようと動いた。」(330、333)

⇒この頃のロシアの接壌国に対する対外政策は、後のスターリンやプーチン時代のそれらと生き写しの、力に任せた傍若無人な膨張主義だったことが良く分かりますね。
 唯一違うのは、当時の最高指導者のニコライ2世が、(スターリンやプーチンに比して、はるかに)優柔不断で一貫性のない人物だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%9A%87%E5%B8%9D)
点です。(太田)

(続く)