太田述正コラム#12900(2022.7.28)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その46)>(2022.10.20公開)

 「・・・<1903年>6月に入ってもロシアが撤兵の気配を示さないと、6月23日、桂首相・小村外相が主導する形で、対露交渉方針を決める御前会議が開かれた。
 ・・・出席者は、山県の他、伊藤・大山・松方正義・井上馨らの元老、桂・小村と寺内陸相・山本海相だった。
 そこで決まった方針は、・・・日本が韓国を専有の勢力圏とした上で満州南部への進出をめざし、ロシアには満州で鉄道権益に限定した利益しか承認しない、というものである。
 韓国において日露は政治的に対等、とした山県–ロバノフ協定(1896年)、その基本を受け継いだ西–ローゼン協定(1898年)に比べ、日本は極めて強気に出た。・・・
 この間、・・・海軍拡張財源不足で窮地に陥った桂内閣を助けるため、第18特別議会において、元老伊藤は政友会総裁として、1903年5月24日、衆議院第一党の政友会に強引に妥協を呑ませた。
 この結果、政友会内での伊藤総裁への不満が高まり、総裁としての伊藤の威信は弱まった。
 この状況を生かし、遅くとも6月2日には、桂首相は、伊藤に政友会総裁をやめさせることについて、山県に相談を持ちかけている。
 政友会を解体しようという策動である。
 山県の協力を得て、7月1日に桂首相は、「病気」を理由に天皇に辞表を出した。
 桂と山県は、明治天皇まで巻き込んで、辞意撤回の条件として、伊藤に枢密院議長に就任させることを8日に内諾させた。
 こうして7月13日、伊藤が枢密院議長に就き、伊藤の後継者で枢密院議長だった西園寺公望が政友会総裁になった。
 山県にとって、政党とりわけ大政党は、素人の政党員が専門の官僚が行う行政権を拘束し、国家に害悪をもたらす存在である。
 しかし伊藤の意志に反し、このような陰謀で総裁辞任に追い込んだことに、山県は後ろめたさを感じたようである。
 伊藤が枢密院議長に就任するのと同じ日に、山県は松方とともに平の枢密顧問官に就任した。
 伊藤の憤懣を少しでも慰めようとする「優しさ」が、山県には残っていた。
 山県は、この時の桂首相の行動に複雑な気持ちを抱いたはずである。
 確かに山県は、桂を自らの第一の後継者とみなし、第三次伊藤内閣以来、4つの内閣の陸相を続けさせた。
 桂も山県の好意に応え、山県が二度目の組閣をする際には憲政党(旧自由党系)との提携工作を行うなど、陸相としての立場を越えて山県に尽くした。
 ところが、首相になった桂は、伊藤の助けがあって増税問題を切り抜けることができたのに、その直後に伊藤に政友会総裁を辞めさせる画策を山県に求めてくる。
 義理や人情を軽んじた桂の感覚に、山県は違和感と不安を覚えるようになったのではなかろうか。
 さて、伊藤辞任後、政友会の動揺は続いたが、最高幹部の原敬や西園寺総裁の尽力で、7月下旬には政友会が解体する可能性はほとんどなくなった。
 これは桂首相や山県の誤算だった。<(注74)>」(334~336)

 (注74)「桂内閣の成立後、伊藤総裁は、日露情勢の打開、欧米列強との外交交渉を行うために、外遊の旅に出る。伊藤総裁は筆頭元老という立場もあり、桂内閣を支援する立場にあったが、留守を預かる原敬や松田正久ら政友会幹部は、政府攻撃に回る。11月に外債未達が発生すると、政友会は、隈板内閣の崩壊以来犬猿の仲であった第二党の憲政本党と桂内閣攻撃で提携する。この時点では党内では政府との交渉を続けるべしとの意見も多く、党内は二つに割れた。連絡を受けた伊藤総裁は外遊先より極秘に電報を打ち、倒閣を見合わせるよう訓示を出す。藩閥政権中枢および党幹部らがこれを回覧したのち、党幹部は矛を収めることを決意、藩閥側は政友会内の反対派を切り崩し、対立は一旦解消された。
 1902年8月10日、任期満了に伴う第7回衆議院議員総選挙が行われ、政友会は引き続き第一党を維持する。選挙後の議会では、地租増徴の継続を巡り、政友会は再び憲政本党と連携して対立、伊藤総裁もこれを抑えられなくなる。同年末、衆議院解散されるが、桂内閣は打開の術として、桂首相が伊藤総裁を直接一本釣りにして、伊藤総裁は一部予算組み替えを条件に、増徴継続を容認する。1903年3月1日、第8回衆議院議員総選挙にて、政友会は再び第一党を維持するが、ほどなく伊藤の密約が発覚する。政友会は伊藤の地租継続の密約を容認するが、代償として党規約の改正、総裁専制からの脱却を要求。伊藤はこれを受け入れる。更に7月12日、元老兼野党総裁という伊藤の立場の扱いづらさ、伊藤が党内をまとめ切れていないという現状を解消すべく、藩閥首脳、党幹部の総意という形で、伊藤は祭り上げの形で枢密院議長に転出。入れ替わりに西園寺公望枢相が政友会総裁に迎え入れられる。
 以降、桂率いる藩閥と、西園寺を総裁に戴く政友会が、妥協しつつ安定的に政権を運営する時代が、約10年間にわたり継続する(桂園時代)。この間、政友会は原の党務の下、衆議院第一党を維持し続ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A

⇒立憲政友会のウィキペディアから取った「注74」は、升味準之輔(1926~2010年。東大法卒、都立大講師、助教授、教授、名誉教授)に拠っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%87%E5%91%B3%E6%BA%96%E4%B9%8B%E8%BC%94
ところ、1903年の日本の国内政治動向について、升味はもっぱら史料だけに語らせているように見受けられるのに対し、伊藤之雄は、史料だけに拠ることなく主要登場人物の心中を恣意的に推し量っていて、どちらにも違和感があります。
 私は、「資料だけに拠ることなく主要登場人物の心中を・・・推し量」るべきだと考える点では伊藤之雄と似通っているものの、伊藤之雄が、山縣と伊藤博文の権力争い・・両者の政党観の違いもその一環・・という即物的な切り口から両者のその時々の心中を恣意的に推し量るという、私が言うところの出たとこ勝負史観、に立脚しているのに対し、私は、秀吉流日蓮主義信奉者たる山縣と横井小楠コンセンサスだけ信奉者たる伊藤博文との間の政争という長期的かつ一貫した思想的な切り口から両者のその時々の心中を推し量るという、マックス・ヴェーバー的史観、に立脚している、という大きな違いがあるわけです。
 その上でですが、日露戦争の暗雲広がる禍機たる1903年において、当時の日本政府部内の実力者達の中で浮き上がってしまっていた不満分子の伊藤博文を無害化するために、山縣が、秀吉流日蓮主義最高指導者としての後継者たる西園寺、と、子飼いで有力な秀吉流日蓮主義者である桂、等、を使って、この伊藤を枢密院なる座敷牢に閉じ込めようとし、それに成功した、というのが私の見方なのです。(太田)

(続く)