太田述正コラム#12902(2022.7.29)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その47)>(2022.10.21公開)

 「・・・<1903年10月1日に>田村怡与造<(注75)>参謀本部次長が病死し・・・<た後、住んでいた京都から東京に駆けつけた>山県<は、>・・・10月5日・・・桂首相と・・・相談し、児玉源太郎<(注76)>内相(前陸相、陸軍中将)を参謀本部次長にすることに決めた・・・。・・・

 (注75)いよぞう(1854~1903年)。「甲斐国東山梨郡相興村中尾(山梨県笛吹市一宮町)に・・・生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代に武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。明治5年(1872年)に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。・・・
 明治8年(1875年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。明治11年(1878年)12月に卒業し、明治12年(1879年)・・・8月には参謀本部出仕となり測量課に配属される。翌明治13年(1880年)5月には士官学校付となる。薩長藩閥の弊害を憂いていた長岡外史や浅田信興が結成した「月曜会」にも参加。
 ・・・明治16年(1883年)4月にドイツ帝国へ留学し、ベルリン陸軍大学校で学ぶ。本国へのドイツ情勢報告書が評価され、2年の留学期間を延長して滞在し、川上操六とともに軍事研究に励む。・・・明治21年(1888年)6月に帰国し、翌月、監軍部(のちの教育総監部)へ配属され参謀に就任。同年10月、陸軍大学校御用掛も兼ねる。翌明治22年(1889年)11月には参謀本部第一局員となり歩兵少佐に昇任。陸軍のフランス式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』『兵站勤務令』の策定や、陸軍演習の作戦計画を担当。
 明治26年(1893年)4月、朝鮮半島での利権を巡り清国との関係が緊迫化すると、情勢把握のため参謀次長の川上操六らと半島へ渡航し、江南地方まで巡回する。帰国後は軍事情勢の分析や対清戦争を想定して陸軍の戦時編成を立案。大本営が設置されると、戦略を担当する川上に対し、動員令の策定や作戦実務を分担する。翌明治27年(1894年)に勃発した日清戦争では、はじめ大本営兵站総監部参謀として兵站を担当し、8月には前線での作戦指導を命じられる。歩兵中佐に昇進して第一軍参謀副長(司令官は山縣有朋)となり、参謀長の小川又次を補佐。独断で奉天への進撃を強行する山県や小川とは意見の齟齬があり、大本営に意見具申している。12月に勅命により山県が更迭されると同行して帰国。・・・明治28年(1895年)・・・2月には歩兵第9連隊長となり再び前戦へ渡航する。
 戦後、明治28年(1895年)9月にベルリン公使館付武官として赴任命令が出るが、同年10月に韓国で乙未事変が起こると現地での調査を命じられ、翌明治29年(1896年)2月にドイツへ赴任。明治30年(1897年)・・・10月には歩兵大佐に進級し参謀本部第二部長に発令され、明治31年(1898年)1月に帰国した。明治32年(1899年)1月に参謀本部第一部長となる。同年には仮想敵国のロシア帝国との戦争が想定されているなか参謀総長の川上が死去し、後任には大山巌、参謀次長には寺内正毅が就任した。明治33年(1900年)4月に陸軍少将、参謀本部総務部長、同年4月から10月まで同第一部長を兼務。明治35年(1902年)4月に参謀本部次長に就任し、同年12月、鉄道会議議長を兼務。田村は日露開戦には消極的であったがロシア帝国との戦争を想定して戦略を練り、過労のため日露戦争開戦の前年に卒去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%80%A1%E4%B8%8E%E9%80%A0
 (注76)1852~1906年。「長州藩の支藩・徳山藩の上士・・・の長男<。>・・・明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊。同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。・・・8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊する。明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し、戦傷を受けている。
 熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将をよく補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。・・・
 台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。2人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。・・・
 日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉を台湾総督に留任させていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

この意志決定過程では、薩摩の大山巌参謀総長や寺内陸相の同意が特に重視されていない。
 日露戦争前には、陸軍の重要人事は山縣と大山の枠ではなく、山県と桂の枠で決まるようになっていたといえる。
 大山は山県より若かったが、体調不良で自らの意志を押し出す気力を失っていたのだった。
 このように、山県系官僚閥の陸軍支配が確立したのだった。
 もっとも山県は、ロシアとの戦争の不安とその対策に頭を痛めており、山県閥陸軍の完成への感慨などなかったろう。」(338~339)

⇒「注75」と「注76」から分かるように、田村は、留学経験があり日清戦争の時しか実戦に従事したことがない人物だったのに対し、児玉は留学経験がなく戊辰戦争の時以来の実戦従事経験が豊富だが日清戦争の時は陸軍次官だったので実戦に従事していない、という対照的な人物であり、山縣が田村が急死することがなくても日露開戦(1904年2月6日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
までに更迭して児玉に代えるつもりだったのか、それともそんなつもりはなくて田村が次長のままだったら日露戦争の展開が違ったものになったのか、等々、考え出すときりがありません。
 いずれにせよ、「山縣閥陸軍」どころか、何度も繰り返しますが、大久保亡き後、日本政府を実質的な最高権力者として率いてきたのは山縣なのであり、この時の参謀次長の人事も、山縣が考え、断行した、というだけの話だ、というのが私の見解なのです。(太田)

(続く)