太田述正コラム#12904(2022.7.30)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その48)>(2022.10.22公開)

 「・・・2月4日、山県ら5元老と桂・小村ら主要5閣僚が集まって御前会議を行い、日露開戦を決定した。
 こうして、5日に戦時の動員が命じられ、8日に戦闘を開始<(注77)>、10日にロシアに宣戦布告を行った。

 (注77)「日本海軍は1904年2月6日より行動に移り釜山沖ではロシア船2隻が拿捕された。2月8日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。その入港時に瓜生戦隊の水雷艇と同地に派遣されていたロシアの砲艦コレーエツが小競り合いを起したのが最初の直接戦闘であった。同日夜には旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)も行われた。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが修復可能で大きな戦果とは言えなかった。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89

 ところで、日本が戦争まで覚悟している雰囲気がロシア側に伝わっていくにつれ、ニコライ2世や閣僚の態度が軟化した。
 1904年1月28日の会議では、ロシアは中立地帯設定の条件を削除し、日本が韓国領土を軍事上の目的で使用しないという条件のみをつけた第4回回答案を決めた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/eef3a9ce5ea0a62817dfc0d3868ebe7ff26917b6 
 これは、日本側の求める満韓交換論という要求をほぼ満足していた。
 しかし、この回答案がニコライ2世の承認を得て駐日公使ローゼンの元にようやく届いたのは、不幸にして2月7日であった。
 翌日の8日には戦闘が始まったので、結局日本側には渡らなかった・・・。・・・
 日露講和条約は<1905年>9月5日に調印される。・・・
 12月20日、山県は参謀総長兼兵站総監の職を辞任し、翌21日に伊藤博文の後任として枢密院議長に任じられた。
 同日、伊藤が韓国統監に就任した<(注78)>ためである。」(342、350~351)

 (注78)「すでに桂‐タフト協定(1905年7月)や第二次日英同盟(1905年8月)によって英米の支持を取り付けていた日本は、05年11月17日、朝鮮の外交権の完全な剥奪、韓国皇帝の下に統監を置くなどを内容とする第二次日韓協約を締結した。この条約に調印した朝鮮の5大臣は「乙巳の五賊」とよばれ、民衆の怒りの的となった。翌06年2月ソウルに統監府が開庁し、仁川(じんせん/インチョン)、釜山(ふざん/プサン)、元山(げんざん/ウォンサン)など重要な地には理事庁が置かれ、諸外国の外交機関は廃止され、外国公使はソウルを去った。統監は朝鮮の内政にも及ぶ広範な権限をもち、必要なときは朝鮮駐箚軍の使用を命ずることさえできる支配者であった。・・・
 伊藤<は、>・・・07年のハーグ密使事件を契機に皇帝を譲位させ,内政権を大幅に削減するとともに軍隊を解散した。しかし朝鮮民衆による義兵闘争は高まり,日本政府内にも併合の早期強行論が台頭する中で09年6月統監を辞任,枢密院議長に復帰した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E7%B5%B1%E7%9B%A3%E5%BA%9C-48745

⇒「1904年(明治37年)、第1次桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルト<米>大統領と面識があった金子<が>、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて同月末出帆の船で渡米、ルーズベルト大統領に常に接触するのみならず、全米各地で講演を行い、<米>世論に日本の立場を訴えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E
のは、山縣が、当時の日本にとって畢生の大事業であった日露戦争において、出番のなさそうな伊藤に若干なりとも仕事をした感を与えて宥めようとしたものであり、また、「韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた<伊藤を、あえて>・・・1905年11月、特派大使として韓国に渡<らせ>、ポーツマス条約に基づいて第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結<させ、>・・・韓国統監府が設置され<ると>、初代統監に就任<させた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 ←事実関係
のも同じことであると共に、それに加えて、予期されたところの、「1905年11月22日、投石により韓国内で負傷」したり、「朝鮮内で独立運動である義兵闘争が盛んにな」ったりする目に伊藤を遭わせたりして、駄々っ子的に併合反対論をとっていたと見ていたところの伊藤に白旗を掲げさせ賛成論に転向させることを狙い、それに成功した(上掲)、という受け止め方を私はしています。
 伊藤に対して辛辣過ぎるという批判は甘受しますが、伊藤が、「1909年10月26日、ハルビン駅で安重根に暗殺され」(上掲)た時、山縣は、自分達が持て余し気味だった「才劣り、学幼」(吉田松陰)くして「明も沢山あるが暗の方も沢山あった」(西園寺公望)けれど、長州出身で「周旋(政治)の才」に恵まれていた(吉田松陰)(上掲)ために明治期において「活躍」したところの、厄介者がいなくなって安堵の溜息をついたのではないでしょうか。(太田)

(続く)