太田述正コラム#12908(2022.8.1)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その50)>(2022.10.24公開)

 「1904年(明治37)12月5日、旅順港のロシア艦隊が陸上よりの砲撃で撃沈されていくと、日露戦争での日本の勝利が見えてきた。
 その中で、12月8日、桂太郎内閣と政友会の間に、日露戦争後に政権を譲るので、それまで政友会が桂内閣に協力するという密約が結ばれた。
 この密約の中心となったのは、桂首相と政友会最高幹部の一人原敬(前逓相)である。
 他に、内閣側で密約を知っていたのは曾禰荒助蔵相(山県系官僚、伊藤にも近い)・山本権兵衛海相(薩摩)の2人であり、政友会側では西園寺公望総裁と松田正久の2人だけだった。
 旧自由党以来の有力者で、やり手だった星亨は3年半前に暗殺されており、党の実権は原と西園寺・松田の手にあった。
 元老では伊藤博文と井上馨の2人のみに知らされ、山県は知らなかった。
 山県系の有力閣僚でも、寺内正穀陸相や清浦圭吾農商相には知らされなかった。
 山県に情報が漏れるのを恐れたからである。
 これは、山県から見れば桂の裏切り以外の何物でもない。
 政友会はその後、密約に従って桂内閣に協力し続ける・・・。
 ところが、この秘密は翌1905年秋には伊藤から山県に漏れていた。
 しかも、その弁明を、桂首相が山県に直接話さずに、山県の腹心の平田東助(前農商相)に伝えさせたのも、山県の感情を傷つけた。
 大阪財界の有力者の藤田伝三郎<(注81)>が京都の「無隣庵」を訪れると、山県は桂にひどく不快の念を抱いて、万事について「桂に反対し八ツ当りの有様」だった。

 (注81)1841~1912年。「長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。・・・木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと交遊関係を結び関係を作・・・り、この人脈が後に伝三郎が政商として活躍する素因となった。なかでも特に井上とは深い盟友関係となる。
 1869年(明治2年)、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げた時、伝三郎はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得た。同年、伝三郎は大阪で兵部大丞山田顕義から軍靴の製造を提案されると、・・・高麗橋に軍靴製造の店舗を設け、藤田傳三郎商社を設立した。1876年(明治9年)には皮革製作所製靴場(現・リーガルコーポレーションの前身)として整備を行っている。
 1877年(明治10年)の西南戦争では陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入し、人夫の斡旋まで行って、三井・三菱と並ぶ利益を上げている。・・・
 1881年(明治14年)、それまでの藤田傳三郎商社を藤田組に組織替えし<、>・・・鉄道建設をはじめ、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの土木工事を請け負い、建設業で躍進する。1882年(明治15年)には琵琶湖の湖上交通を担う太湖汽船(現・琵琶湖汽船の前身)を設立した。1883年(明治16年)には大阪紡績(現・東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。また、農林業も行っている。
 さらに1884年(明治17年)、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けると技術革新に力を入れ、明治30年代後半には、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。この事業は戦後の同和鉱業(現・DOWAホールディングス)に受け継がれている。その他にも伝三郎は実に様々な事業の設立に関わっている。1884年(明治17年)阪堺鉄道(現・南海電鉄の前身)、1887年(明治20年)日本土木会社(現・大成建設の前身)、1888年(明治21年)山陽鉄道(現・JRの山陽本線の前身)、また同年には行き詰っていた「大阪日報」を伝三郎が大阪財界人に呼びかけ「大阪毎日新聞」(現・毎日新聞社の前身)として再興。1897年(明治30年)北浜銀行(現・三菱UFJ銀行の前身)、1906年(明治39年)宇治川電気(現・関西電力の前身)の設立というように、伝三郎は多角的事業経営に乗り出して財閥を形成していった。・・・
 特筆すべきこととして、岡山県岡山市南区藤田にある児島湾の干拓事業が知られる。・・・
 伝三郎は1911年(明治44年)8月25日に民間人で初めて男爵に叙された。実は、これまで民間人で男爵に叙された者は誰一人いなかったため、伝三郎一人だけを男爵に叙することは難しいと思われた。そこで岩下清周は桂太郎首相に働きかけ、結果、関西経済の有力者である住友吉左衛門(住友友純、実父は右大臣徳大寺公純)、鴻池善右衛門(鴻池幸方)、そして伝三郎の三名がまとめて男爵に叙せられることとなったのである。・・・
 久原房之助は伝三郎の実の甥である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E4%BC%9D%E4%B8%89%E9%83%8E

 桂はこのことを知り、驚いて山県を訪れ、じっくりと話して山県に政権授受について納得してもらった。
 これが1905年11月中旬のことだった。
 山県は政友会総裁に政権を譲るのでなく、西園寺侯爵に譲るということで異論がないという・・・。
 山県は、表面上は桂首相を許しながら、桂に強い不信と警戒心を抱くようになったと思われる。
 しかし、桂を連続して陸相にし、首相まで務めさせ、後継者にしたのは山県である。
 今さら簡単にその方針を変えれば、山県系官僚閥は混乱し弱体化するのは目に見えている。
 山県は、桂の謝罪と説明をもって事を収めざるをえなかった。」(353~354)

⇒桂には、西園寺こそ山縣の後継者であることが分かっていたはずであり、西園寺が件の密約を承知している以上、当然、西園寺が山縣にそのことを伝えると思っていたでしょうし、そもそも、西園寺が承知したということは山縣の意向も踏まえた上でのことだと思っていたのではないでしょうか。
 私は、山縣は、西園寺からこの話を聞いていたけれど、聞いていないということで西園寺と口裏合わせをした上で、桂に対して怒ってみせたのだ、と見ています。
 その目的は、桂向けではなく世間向け・・だからこそ、広く伝わることを狙って、その時点では平民だった藤谷に対して怒って見せた・・であって、桂が山縣の不興を買ったために、その後、元老になれなかった、という印象を振りまくことだった、と。
 なお、その桂は、山縣(~1922年)よりずっと早く、1913年に65歳で没してしまいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E (太田)

(続く)