太田述正コラム#12912(2022.8.3)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その52)>(2022.10.26公開)

 「・・・山県は明治天皇に、・・・西園寺・・・内閣の・・・社会破壊主義者・・・取締りが不完全である、と上奏した。
 それと並行する形で、元老井上馨のもとをたびたび訪れて、このままでは外交・財政がとても不安であるので、内閣が辞任するなら1909年度予算編成に入る前が良い、と述べた。
 西園寺は首相となって2年半、健康も悪化していたので、あっさりと辞任を決意した。
 こうして7月4日、西園寺は閣員一同の辞表をまとめて天皇に提出し、後継に桂を推薦した。
 原敬はこの倒閣を、「山県の内奏を始め種々の奸計」、「山県系の陰険手段」などと見た・・・。
 日露戦争後、最有力元老の一人として山県は、政党や軍縮を嫌うあまり倒閣の策動を行った。
 このことで、山県には「陰険」などという悪いイメージが定着していった。
 第一次西園寺内閣が倒れると、1908年(明治41)7月14日に山県系官僚を背景として第二次桂太郎内閣ができた。・・・
 すでに見たように、山県元帥は桂への不信感を持つようになっていた。
 しかし、西園寺内閣を倒そうと決意したのは、桂内閣のほうがましだろうと考えてのことだろうと思われる。
 第二次桂内閣が元老会議を開くことなく成立したのは、山県の計算内だっただろう。

⇒ことごとく私見とは違います。
 私は、前にも記したことがある(コラム#省略)けれど、山縣は、西園寺と桂とも相談の上、「桂率いる藩閥と、西園寺を総裁に戴く政友会が、妥協しつつ安定的に<交互に>政権を運営する時代<を、当分の>間継続<させる>(桂園時代)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
ことで、一般国民と欧米列強に、日本が政党政治に移行しつつあるとのイメージを与えることとし、第一次桂内閣を第一次西園寺内閣に交代させた、と見ています。
 そして、既に指摘したように、(これも桂に言い聞かせた上ででしょうが、)桂が山縣の不興を買ったというイメージを流布させ、桂の元老の芽をつぶす一方で、これは初めての指摘ですが、今度は、第一次西園寺内閣を第二次桂内閣に交代させる際、西園寺に次期首相として桂を推薦させることで、政党政治(憲政の常道)の疑似的予行を行わせると共に、西園寺が事実上新元老に就任したというイメージを流布させた、と。(太田)

 桂大将は二度目の組閣にあたっても、天皇の特旨で現役のままだった。
 桂は陸軍の長老として、陸軍の重要人事などに関与できる資格を得たのである。・・・
 桂首相から西園寺への二度目の政権授受も、元老会議を開かないという点で、一度目と同じような形で行われ<た>。・・・

⇒天皇に西園寺を推薦したのが誰かを伊藤之雄は書いてくれていませんし、少し調べた限りでは分かりませんでした。(太田)

 明治天皇<が、>・・・1912年(明治45)7月30日に、59歳で病死する。・・・
 <山県は、>桂<が>・・・明治天皇を失って動揺し<ていた>・・・状況を利用し、・・・<彼に>内大臣兼侍従長になることを承諾させた。・・・
 内大臣は、27年前に三条実美が、太政大臣の職がなくなったために新たに就いた格式の高いポストで、<1891年の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E >三条の死後は空席となっていた。・・・
 8月末になると、桂の宮中入りは永久のものであると、各方面が見るようになっていた・・・。
 しかし桂太郎内大臣は、政党を作り、再度組閣して政界を刷新しようという野心を、簡単には捨てなかった。・・・
 これに対し山県は、桂を元帥にしようとした。
 元帥は軍人の最高の地位で、終身現役でいられる名誉あるポストである。
 しかし現役の軍人は政党に関われないので、桂は政党総裁になれなくなる。
 10月23日、元帥に任命するとの大正天皇の命を、桂は辞退した・・・。」(359~360、365、369、375~376)

⇒桂にしてみれば、山縣の意向に沿って西園寺と共に桂園時代を築いたというのに、山縣が、日本の最高権力者の座を西園寺に譲ろうとしているように見えたことが面白くなく、西園寺にあって自分に欠けているのは、有力政党の党首としての地位であると考え、それを得ようと画策したのでしょうが、山縣としては、杉山構想的なものをそう遠くない将来に作らせようとしていたところ、そのような構想の策定を取り仕切る者は一人でなければ船頭多くして船山に登るになりかねない上、構想が漏れてしまう危険性が生じるのでよろしくない、と考えており、桂を対西園寺的に一歩引き下がらせる必要があったのでしょう。(太田)

(続く)