太田述正コラム#12918(2022.8.6)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その55)>(2022.10.29公開)

 「・・・山本内閣は、1913年(大正2)6月13日の陸海軍省官制改革で、陸・海軍大臣の任用資格を、現役の大将・中将から、予備役・後備役(現役を退いた軍人)の大将・中将にまで拡大した。
 予備役・後備役の軍人は政党にも入党できる。
 これは、上原陸相の辞任が政変のきっかけとなったことを考慮した改正で、政友会側の要望だった。
 陸軍では、山県系の武断派長谷川好道<(注89)>参謀総長らを中心に改正に抗議したが、元来政治能力がない長谷川は、山本首相に押し切られた。

 (注89)よしみち(1850~1924年。「長州藩支藩岩国藩士・・・の子として生まれる。剣術師範であった父について剣術を修める。戊辰戦争には精義隊小隊長として参戦する。
 明治後は大阪兵学寮学生となり、1871年(明治4年)8月に陸軍少尉心得、同年12月には陸軍大尉・5番大隊長。1872年(明治5年)4月、陸軍少佐、翌年5月歩兵第1連隊長心得、同6月中佐として西南戦争に従軍する。戦後、広島鎮台歩兵第11連隊長、同鎮台参謀、大阪鎮台参謀長、中部監軍部参謀を経て陸軍大佐に昇進する。1885年(明治18年)フランス差遣を命ぜられ、翌年の1886年(明治19年)12月、陸軍少将・歩兵第12旅団長に昇進する。歩兵第12旅団長時代に、日清戦争に出征して旅順攻撃で戦功を立てる。
 1895年(明治28年)、軍功により男爵を授爵して華族に列せられる。1896年(明治29年)6月、陸軍中将に進んで第3師団長、1898年(明治31年)には近衛師団長。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などに善戦した。1904年(明治37年)6月、陸軍大将に進級し、同年9月には韓国駐剳軍司令官に就任。
 1906年(明治39年)4月、功一級金鵄勲章を受章し、翌年9月、子爵に陞爵。1908年(明治41年)の軍事参議官を経、1912年(明治45年)1月20日、参謀総長。1915年(大正4年)、元帥府に列せられる。
 この間、伯爵に陞爵した長谷川は1916年(大正5年)10月16日、寺内正毅の後任として朝鮮総督に就任する。総督在任中の朝鮮で起こった三・一独立運動に対し、軍を動員して鎮圧したことなどが武断政治として批判を浴び、土地調査事業を完了させたものの、わずか3年で斎藤実に交替する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93

 これに対する陸軍内の反発も強く、6月24日、体調を崩した木越安綱<(注90)>陸相(山県系の中でも桂の腹心、第三次桂内閣からの留任)は辞任した。

 (注90)1854~1932年。「加賀藩士・砲術師範・・・の二男として生まれる。・・・
 陸軍教導団を経て、1875年、陸軍士官学校(旧1期)に入る。士官学校在学中の明治10年(1877年)に任官し、西南戦争に出征する。1883年、ドイツに留学し、晩年のモルトケのもと最盛期を迎えていたドイツ参謀本部を目の当たりにする。帰国後はフランス式であった日本の陸軍をドイツ式にあらためる。
 日清戦争では第3師団参謀として第3師団長・桂太郎のもとで活躍、朝鮮半島から鴨緑江を渡河し清国領内へと進撃していった。このとき、直属上官であった桂太郎から絶大な信頼を受け、それをきっかけにして長州閥の寵児として出世していく。 
 明治27年末に大佐に昇進し、明治30年に軍務局軍事課長に就した。翌31年に陸軍少将に昇進するとともに、台湾補給廠長に任命され、さらに台湾総督府陸軍幕僚参謀長となる。明治33年には、軍務局長となり、内地に戻る。翌34年には歩兵第23旅団長に就任する。
 日露戦争では韓国臨時派遣隊司令官として真っ先に出征した。歩兵第23旅団を率いて佐世保を出航、仁川港に上陸して鉄道で京城に向かい、韓国駐箚隊を指揮下に入れる。朝鮮半島確保後、黒木為楨大将の第1軍の尖兵として鴨緑江渡河作戦に従事、第1軍最右翼から渡河してロシア軍の退路を攻撃、多大な損害を与えた。その後、自身の旅団に、騎兵、砲兵、工兵の各1個中隊を加えて木越支隊を編成、師団前衛として遼陽に進撃、ケルレル中将の東部支隊を撃退する。8月30日に始まった遼陽会戦では五頂山を攻め、後続の岡崎生三少将の饅頭山攻めに独断で1個連隊を派遣し支援、その占領をなさしめる。そして、10月13日に陸軍中将に昇進、第5師団長として黒溝台会戦に参加し、第8師団(立見尚文中将)を全滅から救った。さらに、グリッペンベルク大将の大軍を破り、これによりロシア軍の冬季総攻撃の出鼻を挫き、奉天会戦の勝利に貢献した。
 1907年9月21日、西南・日清・日露の各役の軍功により男爵を授爵。
 1913年1月、第1次山本内閣の陸軍大臣に就任。第一次護憲運動をうけた軍部大臣現役武官制改正案に陸軍は猛反対したものの、最終的に木越が陸軍の意向に逆らう形で、閣僚として改正に同意する。6月13日、予備役でも軍部大臣に就任できるように改正され、6月24日に至って辞任。
 この改正以後、陸軍の意向に逆らった木越は冷遇された。陸軍大将に昇進することなく、定年前に予備役に編入される。
 大正9年(1920年)5月15日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、没するまで貴族院議員を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%B6%8A%E5%AE%89%E7%B6%B1

 山本首相は山県らの同意を得る慣行を無視し、後任陸相として楠瀬(くすのせ)幸彦<(注91)>中将(土佐出身)を一本釣りした。

 (注91)ゆきひこ(1858~1927年)。「土佐藩士・・・の長男として生まれる。
 東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。
 フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。
 1894年11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年1月14日、第5師団軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
 台湾総督府参謀、西部都督部参謀長、第12師団参謀長を経て、1901年6月26日、陸軍少将に進級。
 対馬警備隊司令官、大阪砲兵工廠提理を歴任。
 日露戦争では、第2軍兵站監として出征した。
 第4軍創設時に砲兵部長となり、奉天会戦では満州軍重砲隊司令官として参戦した。
 由良要塞司令官、樺太守備隊司令官、初代樺太庁長官などを経て、1907年11月、陸軍中将に進み、第1師団司令部付、由良要塞司令官、技術審査部長を歴任。
 1913年6月、第1次山本内閣の軍部大臣現役武官制改正問題で騒動に責任をとって辞任した木越安綱の後を受け、ごぼう抜き人事で陸軍大臣に就任した。
 翌年4月に大臣を辞任し待命となり、1915年4月16日に休職した。
 1917年4月16日に予備役に編入され、現役を退いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E7%80%AC%E5%B9%B8%E5%BD%A6

 楠瀬は山県から好まれていなかった。
 しかも、陸相に就任する人物が通例いくつか歴任するポスト、陸軍省の軍事課長・軍務局長・次官、もしくはそれに準ずる参謀本部の主要部長・参謀次長など、中央の要職に就いたことすらなかった。」(384)

⇒「楠瀬幸彦<の>・・・地方勤務が多かったのは,長州閥を批判したためだという」
https://kotobank.jp/word/%E6%A5%A0%E7%80%AC%E5%B9%B8%E5%BD%A6-1071649
のですが、西園寺は、「閔妃暗殺事件・・・の時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺公望文相が外相臨時代理を務めていた<ところ、>西園寺は未曾有の事件に不審を抱き、ただちに小村寿太郎政務局長を現地に派遣し<、その>小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は三浦公使が使嗾したものと断じたので、同日、公使を召喚し、罷免し<、>国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを裁判にかけたが、証拠不十分で<全員>無罪となった」
http://www.y-history.net/appendix/wh1403-037_1.html
というこの時の関りから楠瀬のことを良く知っていて、楠瀬をそれなりに評価していた(前々首相でまだ政友会総裁であった)西園寺公望
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
が、木越に向けられていた陸軍部内の怒りを、楠瀬が陸相になったことへの怒りで分散・軽減させることを狙い、山縣の消極的同意を取り付けた後、楠瀬にその役割を良く言い聞かせた上で、このありうべからざる人事を山本に飲ませた、というのが、今のところの私の見方です。(太田)

(続く)