太田述正コラム#12920(2022.8.7)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その56)>(2022.10.30公開)

 「さらに山本内閣は、文官任用令を改正し、高級官僚である勅任官の任用に関し、文官高等試験合格者などの資格を必要としないポストを拡大した(勅令は8月1日公布)。
このため、従来は内閣書記官長と大臣秘書官にのみ制限されていた自由任用が、各省次官(陸・海軍を除く)、法制局長官、警視総監、貴族院・衆議院両院の書記官長、内務省警保局長、各省の勅任参事官にまで広がった。
 山本内閣がこのような改革を行えたのは、桂が首相になるために内大臣を辞任した後に、伏見宮貞愛親王<(注92)(コラム#12834)>(陸軍大将)が内大臣府出仕<(注93)>(内大臣は空席)として、大正天皇の摂政的役割を果たしたおかげでもある。

 (注92)「1883年(明治16年) 亜細亜協会名誉会員<。>・・・1910年(明治43年) 英国へ出発。途次、上海の東亜同文書院を見学。・・・1912年(大正元年) 明治天皇崩御により大喪使総裁、内大臣府出仕<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注93)「勤めに出ること。出勤。また、主君の側に伺候すること。」
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E4%BB%95-528919

⇒伏見宮の内大臣出仕の事情は、「大正天皇の政治力は即位前から不安視されていた。明治天皇崩御直前の1912年(明治45年)7月26日に、徳大寺実則内大臣兼侍従長と渡辺千秋宮内大臣が美子皇后に面会し、大正天皇を皇后と伏見宮貞愛親王で補佐することを依頼。しかし、皇后は「『女性が政治に関わるべきではない』という明治天皇の意思を守りたい」として断った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
ということになっているけれど、私は、貞明皇后が、秀吉流日蓮主義家である伏見家(コラム#12834)の貞愛親王と協力して、大正天皇を秀吉流日蓮主義者へと善導しようとしたのだと見ています。
 そして、表立って大正天皇を補佐するのを控えたのは、そういう自分の意図が露見することを避けたかったからである、とも。(太田)

 伏見宮は54歳の働き盛りで、皇族筆頭の地位にあり、山本首相・原内相との関係も良好であった。

⇒「大学南校に入学すると上原勇作と友人になる。上原を洋行に誘ったが、野津道貫が「行かん方がよか」と同意しなかったため上原は断念した。晩年、上原は「野津さんの言うことを聞かずに随行していたら宮内省の一官吏で終わっていたかもしれぬ。」と述べている。後年、ニコライ2世の戴冠式に出席した際は親王は上原を随行員に指名している。
 上原に長女が誕生すると、自らの一字をとって「愛子」と命名している。愛子が就学すると上原親子を私邸に招き祝っている。
 死の直前、愛馬「高管」を上原に下賜している。上原は官馬制度が施行された後も高管に乗馬し続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B 前掲
という話はあるけれど、山本権兵衛や原敬との接点がどこにあったのか、伊藤にはほんの少しでいいので触れて欲しかったところです。(太田)

 また、三人は大正天皇との関係も良く<(注94)>、天皇は彼らの助言に従って、心理的な負担に苦しむことなく、天皇としての形式的な職務を果たした・・・。」(384~385)

 (注94)「1912年7月29日夜、明治天皇が崩御。・・・11月には貞明皇后とともに伏見桃山陵を参拝。京都へ向かうお召し列車の中で大正天皇は原敬内務大臣を呼び雑談をするが、知識が豊富な原は、以後も行幸や大演習の際に話相手として再三呼ばれることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲

⇒「注94」から、大正天皇と原敬との関係は分かったけれど、山本権兵衛との関係は分からずじまいでした。
 ちなみに、「1914年(大正3年)3月、シーメンス事件により第1次山本内閣が総辞職した際に・・・、大正天皇は後継総理の選定を元老に委ねたにもかかわらず、昭憲皇太后危篤の報を受けて沼津御用邸へ向かう車中で山本権兵衛に留任を求める不用意な発言を行う。しかし、以前から大正天皇の政治能力に疑問を持っていた山本はこれに取り合わず山縣有朋を推薦。天皇は直ちに山縣を呼び組閣を命じたが、山縣にも断られ、かつ諫言を受ける有様であった。・・・<後に>山本権兵衛は女婿の財部彪に、「大正天皇の考えといっても、明治天皇のそれと異なる。たとえ、大正天皇の命であっても国家のためにならないと判断すれば従わないほうが忠誠を尽くすことになる」と語っていた<ところ、>・・・天皇がひどく嫌っていたのが<この>山縣有朋である」(上掲)、といった次第であり、政府部内における秀吉流日蓮主義の総元締めたる山縣への大正天皇のこのような姿勢からして、同天皇の秀吉流日蓮主義への善導に貞明皇后が完全に失敗したことは明らかですね。
 そして、1912年11月22日に大正天皇の政務を停止させた、すなわち、裕仁皇太子を摂政に就任させた(上掲)ことが、山縣有朋(~1922年2月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
が最後の大仕事になった、というわけです。(太田)

(続く)