太田述正コラム#12922(2022.8.8)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その57)>(2022.10.31公開)

 「ところで、陸海軍大臣の任用資格と文官任用令の改正は、山県が第二次内閣で行ったことを否定するもので、山県は不快極まりない気持ちでいたと思われる。
 しかし、山本内閣は、新帝や有力皇族まで加えて強固な体制を築いており、山県がこれらの改革を妨害するため積極的に動いた形跡は残っていない。・・・

⇒日本の事実上の最高権力者の山縣の指示を受けて行われた「改革」のはずであり、山縣がそれを「妨害するため積極的に動」くはずがありません。
 ところで、この「改革」以降の運用については、「第1次山本内閣の後を受けて大命降下した清浦奎吾は、海軍拡張(八八艦隊の建造費用)について海軍と合意できず、海軍大臣候補が得られなかったため、組閣を断念している(鰻香内閣)。伊藤正徳によると、制度としては予備役でもよいとなっていても、実際問題として誰が適任で誰が空いているか、清浦には全く見当がつかなかった上に相談相手も得られなかったので組閣断念に至ったという(また、清浦が軍部大臣現役武官制の擁護者であった山縣有朋の側近であったことも大きい)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
といった感じだったというのですが、引用した部分の最後の括弧内のセンテンスは考え過ぎでしょう。
 なお、「1936年(昭和11年)5月、広田内閣のとき、陸軍省官制及び海軍省官制に「大臣及次官ニ任セラルル者ハ現役将官トス」との規定を設けて(附表、別表)、軍部大臣現役武官制を復活させた<が、>この制度復活の目的には、「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた荒木貞夫や真崎甚三郎が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた」(上掲)ところですが、太田コラム読者ならご存知の通り、二・二六事件を起こさせたのは、私見では山縣の後継者たる西園寺と牧野なのであり、山縣は、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争に着手した後、然るべき時に、このようなやり方で現役武官制を復活させよ、と西園寺に言い残したのだろう、と、私は見ています。(太田)

 <1914年3月に>シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、・・・山県<が>・・・一貫して主導し<たものの、>・・・大隈内閣ができるまでに7回の元老会議と1回の元老・大隈会談を行<うも>、22日<も>かかっ<た。>
 その後4月28日、山県は、空席であった内大臣に大山巌をすえ、内大臣府出仕だった伏見宮が摂政的役割を果たせないようにした。・・・

⇒まさに、事実上の最高権力者にふさわしい働きぶりですね。
 なお、伏見宮の退出は、大正天皇の秀吉流日蓮主義者への善導を貞明皇后や伏見宮がついに諦めたのを、山縣が承り、追認した、ということでしょう。(太田)

 原は<1914>年6月に政友会総裁に就任し、名実ともに政友会の指導者になっていた。
 その後、11月に日本軍は中国山東省のドイツ根拠地青島を占領し、翌1915年1月に大隈内閣は中国の袁世凱政権に対して、21カ条の要求をした。・・・
 5月9日、袁世凱政権は日本に屈し、中国中央政府に政治・財政および軍事顧問として有力な日本人を雇う等という第五号要求を除き、要求を承認した。
 中国は強い反日感情を持った。
 この間、1914年12月25日に政友会の反対で、二個師団増設要求が衆議院で否決された。
 山県は11月4日と12月19日に原を招いて、師団増設に賛成するよう説得したが、うまくいかなかったのである。
 議会は解散となり、翌年3月25日に総選挙が行われた。
 青島陥落の明るいムードや、1915年に入って経済にも前途に明るさが見えてきたこともあり、選挙期間中の大隈首相の人気には、すさまじいものがあった。
 さらに、大隈内閣は組閣後に、総選挙に備えて知事など内務官僚の異動を行っていた。
 それは政友会(原)系を退け、同志会(大浦<(注95)>)系を起用する人事だった。
 総選挙の結果は、立憲同志会<(注96)>など大隈内閣の与党の圧勝であった。

 (注95)大浦兼武(1850~1918年)。「薩摩藩主島津家の分家である宮之城島津家の家臣として生まれる。戊辰戦争では薩摩藩軍に参加し、奥羽方面に出征。
 明治維新後は警察官となり、邏卒から累進して明治8年(1875年)、警視庁警部補に昇任。明治10年(1877年)、西南戦争で抜刀隊を率いて功績を挙げた。このとき陸軍中尉兼三等小警部となる。
 明治15年(1882年)、大阪府警部長(現在の警察本部長)に就任。明治17年(1884年)に起きた松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)に際しては、軍服姿で双方の上官として現場を鎮定し、評価を高めた。明治21年(1888年)、警保局次長に就任。
 明治26年(1893年)以降、島根県・山口県・熊本県・宮城県の知事を歴任。明治31年(1898年)、警視総監に就任。明治33年(1900年)3月19日、貴族院議員に勅選される。
 明治36年(1903年)、第1次桂内閣で逓信大臣として初入閣。その後も第2次桂内閣の農商務大臣、第3次桂内閣の内務大臣、第2次大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。立憲同志会の創立にも加わる。
 しかし、大隈内閣の内相時代に選挙違反の嫌疑で取り調べを受けることになり、そこからかつて第2次桂内閣で農商相だったときに二個師団増設案を通過させるために議員を買収していたことが発覚。これで内相を辞任することになり、政治生命を絶たれることとなった(大浦事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E5%85%BC%E6%AD%A6
 (注96)「2度の内閣を組織し、その経験から自らが政党を組織することを志向した桂太郎は、自派の官僚と桂に気脈を通じる議員らとともに「桂新党」を結成しようとした。しかし、桂の自立をよしとしない政党嫌いの山縣有朋によって宮中に押し込められた桂がこの構想を公にするのは、第一次護憲運動に遭遇することになった第3次桂内閣の時期であり、立憲国民党からの入党はあったが、立憲政友会の離反を招き、また、期待した田健治郎など官僚や貴族院議員からの入党もさほど上手くいかなかった。
 高揚する護憲運動により帝国議会を大衆のデモが取り巻く中で桂内閣は総辞職。桂首相も失意の内に癌で死去した。桂の死後、新総裁の有力候補と目されていた後藤新平と、仲小路廉は同志会から脱党する。その後、大浦兼武と加藤高明が総裁候補として対抗したが、1913年12月23日総理に加藤高明、総務委員に河野広中、大石正巳、大浦兼武の3名を選出し正式に結成された。その他役員には、島田三郎、箕浦勝人、片岡直温、若槻礼次郎などが名を連ねた。
 同志会は第一次山本権兵衛内閣では野党となり、山本内閣をシーメンス事件で攻撃した。続く第2次大隈重信内閣では一転して与党となり、加藤高明外相・大浦兼武内相・若槻禮次郎蔵相を閣内に送り込んだ。
 1915年の第12回衆議院議員総選挙で第一党に躍進したが、同時に大浦内相が選挙干渉事件をおこした。翌1916年6月大隈内閣と与党間に合同運動が持ち上がり、10月10日尾崎行雄らの中正会・大隈系の公友倶楽部と合同して憲政会を結党する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%90%8C%E5%BF%97%E4%BC%9A

 与党は衆議院の全議員の34.5パーセント(131名)から、54.9パーセント(209名)に急増した。
 大隈内閣は、総選挙後の第36特別議会(1915年5月20日~6月9日)で、二個師団増設などを含む追加予算を成立させた。
 こうして、山県の目標である二個師団増設と政友会退治は実現した。」(385、395、397~401)

⇒「注96」にも「政党嫌いの山縣有朋」というくだりが出てきますが、何度でもそんなことはありえない、と申し上げておきましょう。
 二個師団増設問題それ自体ではなく、それを人質にして権力闘争に明け暮れるのは政党が未熟だからであり、政党が成熟してくるまでは、政党政治(憲政の常道)は日本では時期尚早だ、と、山縣は考えていたのでしょう。(太田)

(続く)