太田述正コラム#12924(2022.8.9)
<伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む(その58)>(2022.11.1公開)

 「・・・第一次世界大戦がはじまるとまもなく、山県元帥は大隅首相や加藤外相・若槻蔵相に、「対支[中国]政策意見書」を提出した。・・・
 山県は日中関係を武力で威圧して利権を求めるだけでは改善しないと考え、日中「親善」をめざした新しい日中関係を求め・・・た。
 この点は、山県の中国政策の変化の始まりといえる。・・・

⇒コラム#9902で、私は、島津斉彬が、日本の中期目標として、支那の覚醒・復興を考えていて、その手段として、支那を辱めることで、辱めた日本への怒りがその覚醒・復興につながる、と見ていた、と、指摘したことがあります。
 また、この「辱め政策」が、大久保利通への私淑を通じて自らも秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者となったところの、大隈重信によって実行に移されたのが、斉彬の意図に沿った合法的行為であるところの、支那に対する1915年1月18日の対華21ヶ条要求であったのではないか、とも。
 もとより、山縣こそ、当時の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達の総元締めなのですから、二十一カ条要求的なものそれ自体に、山縣が反対であるはずがないのです。
 しかし、山縣は、日清戦争での敗北と支那領域内を舞台にした日露戦争、等の支那「辱め政策」を行い、支那で革命も起こさせたところ、新しい情勢にも鑑み、支那に対して、更にダメ押し的な「辱め政策」をとる時期ではもはやないと考えるに至っていたのではないでしょうか。
 つまり、(ロシアを含む)欧米勢力が欧州を中心舞台として全球的に激突する時代が到来した今や、欧米全体に対しては圧倒的に小さい国力しかまだ持っていない日本が、軍事・外交能力を駆使して巧妙に立ち回った上で、上記コンセンサス遂行戦争を適切なタイミングで行うことで、上記コンセンサスの完遂とまでは行かなくても、概ね完遂するくらいのところまでは実現できるのではないか、その前提として、支那内の見どころがある勢力を発見してそれと手を結ばなければならない、と。(太田)

 青島占領の直前、1914年11月4日、山県は原敬との会談で、大隈首相と加藤外相が山東半島を中国に返還する意思がないような発言をしていることを、批判した。・・・
 さらに、日本が「<二十一カ条要求の>第五号要求を外すなど緩和した最終案を中国に提出する前、「必ず英・米・露等と意志の疎通を十分に計」っておくように、と山県は加藤外相に命じていた・・・<というのに、>結局、5月9日に中国側<が>最終案を受諾した(調印は25日)<けれど、>二十一カ条要求には中国のみならず、第五号要求に関し米・英からも批判が起こった。
 その後、5月18日、山県は原との会談で、二十一カ条要求について、満蒙に関する条項のみを提出すれば問題なかったのに、第五号要求まで希望条件として提出し、この条件を列強に示さなかったので列強から異議が来てしまった、と加藤外相を批判した。
 山県は、二十一カ条要求の原案の写しすら<自分を筆頭とする>元老<達>に示さないような、これまでの慣例を無視した加藤外相の手法にも憤慨していた・・・。

⇒外相の加藤高明もまた、尾張藩出身だったので秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だった(コラム#9902)、ということを、この際、思い出してください。(太田)

 このため加藤外相は、大浦内相が買収で辞任した<(注96)>のに続き、8月10日に辞任した。」(401~404)

 (注96)大浦事件。「大隈は立憲同志会総理加藤高明の協力の下に組閣を進めた。加藤の計画では内務大臣のポストに同志会の幹部であった大浦兼武を予定していたが、中正会所属尾崎行雄や立憲同志会所属大石正巳も内相を希望し、混乱を嫌い一刻も組閣を急いだ大隈は総理が内相兼務とし、尾崎に司法大臣、大浦に農商務大臣のポストを与える事で決着をみた。
 同年、<欧州>では第一次世界大戦が勃発し日本は日英同盟の誼でドイツ帝国に対し開戦した。明治末年からの懸案であった二個師団増設問題への反発も和らいだと見た大隈内閣は、12月帝国議会に<二>個師団増設案を提出した。野党第一党の政友会は200名弱も議席を有し、国民党代表犬養毅と共に増設案に反対の立場を執った。しかし政友会の中には賛成論者もいた。ここで大浦は衆議院書記官長林田亀太郎を介し、四万円の工作資金で買収工作を始め、さらに政友会代議士の板倉中に一万円を渡した。大浦の工作によって政友会からは18人の議員が脱党して大正倶楽部を結成したが、結局、政友会と国民党の絶対多数で増設案は否決され議会は解散するに至った。大浦は後に、二個師団増設否決が陸海軍の軋轢のもととなり、更に選挙となれば多数の逮捕者が出ることを憂いていたと語っている。12月の初旬には大浦による買収工作の噂が立っており、12月11日に田健治郎が大浦に直接忠告を行っている。
 大隈は大浦を内相、河野広中を農商務相、安達謙蔵を参謀長格に据えて選挙戦に挑んだ。その結果、政友会は大敗して議席は半減して第二党に転落し、同志会・中正会・大隈伯後援会が絶対多数を手にした(第12回衆議院議員総選挙)増師案は可決通過した<が、>・・・大浦の買収工作が明るみに出、大隈内閣を揺るがす大問題となった。
 司法大臣尾崎行雄は、鈴木喜三郎次官や検事総長平沼騏一郎と協議し、大浦が引退すれば罪を問わないという方針を決めていた。・・・閣議にこの議論が出されると、大浦に対して厳しすぎると批判が起こった。大浦が「正々堂々と、法廷に出て、是非を争いましょうか」と述べたところ、尾崎は「何を争うのか」と冷ややかに答えた。他の閣僚は苦い顔をして一言も発しなかったという。7月30日付けで大浦は辞表を提出した。かつて、閣僚一人の不祥事で内閣が総辞職する例はなかったが、大隈首相は辞表を提出し、他の閣僚も辞表を提出した。加藤外相を含む内閣閣僚の大半は内政外政の多難さから総辞職を望んでいた。しかし大隈は政権を投げ出す気はなく、また辞表が受理されないと見ており、元老らも存続を勧告した。結局大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下し、大半の閣僚を入れ替えて改造大隈内閣が始動した。
 大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している。
 大浦は起訴猶予となったが、・・・<17名が>収賄罪で起訴され・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒大浦の贈賄目的で使ったカネの出所を知りたいところです。
 とまれ、二個師団増設問題をオモチャにして、実弾(カネ)が飛び交う政争に明け暮れていた政治屋達の姿を見て、これじゃあ、見かけだけの憲政の常道の「実現」すら覚束ないかもしれない、と、さぞかし、山縣、西園寺、牧野らは嘆息していたことでしょうね。(太田)

(続く)